イエスの変貌 / Transfiguration of Jesus

 松本豊かな命キリスト教会

作成者: 靖博

御言葉:マタイによる福音書17:1~8

トピック:人生

メッセージ内容

メッセンジャー 城兄
タイトル 「イエスの変貌」
聖書箇所 マタイ17:1-8

Message Info

Speaker: Jo-san
Title: Transfiguration of Jesus
Bible Passage: Mat. 17:1-8

メッセージ原稿

イエスの変貌 マタイ17:1~8
マタイ 17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高 い山に導いて行かれた。
マタイ 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように 白くなった。
マタイ 17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
マタイ 17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、 すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのため に一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
マタイ 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がし た。
マタイ 17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
マタイ 17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」 と言われた。
マタイ 17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであっ た。 皆さんのイエス・キリストのイメージはどのようなものでしょうか?鼻が高くて、ホリが深く、 イケメンで…大体西洋風の顔立ちでしょう。 数年前、英国の研究者がイスラエルの考古学者とチームを組み、ガリラヤ地方で発見された頭 蓋骨を元に当時の男性の顔を再現しました。そうしてイエス様もこのような顔立ちだったのでは ないかと発表しました。(イエス様の頭蓋骨から再現したわけではありませんよ。イエス様はよ みがえられましたから) それは私たちのイメージするイエスではなく、ずんぐりした鼻をもつ、イケメンとは言えない顔 です。
イザヤ 53:2 …彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見 ばえもない。 聖書によるとイエス様は決してイケメンではなかったようです。するとこのイメージの方が真実 に近いのかもしれません。私のユダヤ人のイメージもこっちに近いです。 このように少なくとも地上での生涯でのイエス様は人目を引く風貌でなく、その辺を歩いてい ても誰もイエス様と気づかなかったでしょう。 しかし、今日のこの箇所ではイエスの真の姿、誰もが注目する栄光の姿を垣間見ることができ ます。
1、イエスの変貌 1~3節
マタイ 17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高 い山に導いて行かれた。 それから六日とはどうゆうことでしょうか?直前の16:13からの出来事を指しています。 ちょっと遡って見てみましょう。 ピリポ・カイザリヤにてペテロの「あなたは生ける神の御子、キリストです」という信仰告白。 それに対してイエス様が人の子は権威者たちに虐げられ、殺される。しかし三日目によみがえ る。と語られた受難告知。
マタイ 16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。 その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。(再臨と裁き)

マタイ 16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国 とともに来るのを見るまで(別訳、王位を帯びて現れる人の子を見るまで)は、決して死を味わ わない人々がいます。」 救い主は殺されるが、復活すること。また再びご自身が栄光を持って来られること、その時御 国が建国されることを予告しました。それから六日ということですね。 これらのことが確実であることを指し示すため。ご自身の栄光をあらかじめペテロ、ヤコブ、 ヨハネの3人に見せたのですね。 「人の子が御国とともに来るのを見る」とはそのことを指しています。(御国=神の支配、王権) マタイ 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように 白くなった。 ここで「変わり」と訳されている言葉はメタモルフォー、変態するという言葉です。と言っても 「うえへへへぇ~」とかいう変態ではなく、蛹が蝶に変わる方の変態です。 しかも受動態なので「変えられた、変えさせれた」ということです。「変態された、させられ た」ということですね。 父なる神様によって、イエス様はその御姿を変えられたということです。ただ姿が変わったとい うより、一時的に本来の神の御子としての栄光の姿に戻られたということでしょう。 イエス様は徹底的に父なる神様に従ってその生涯を歩んだのです。 3人はこの出来事の意味をすぐには分からなかったでしょう。しかし聖霊を受けたのち、その 意味するところ、イエス様が再び来られ神の国が来ることを確信したでしょう。

マタイ 17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。 なぜモーセとエリヤなのでしょうか?モーセといえば律法ですね。エリヤは有名な預言者、預 言者の代表です。 律法と預言者といえばユダヤ人はピンときます。というのは私たちが持っている聖書は旧約聖 書と新約聖書に分かれていますが、ユダヤ人は旧約聖書を律法と預言者と諸書と呼んでいるから です。 律法(トーラー)、預言者(ネイビーム)、諸書(ケドビーム)これらの頭文字を合わせてタナ カとか言います。あるいは単に律法と預言者とか言います。

ルカ 24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、 あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあ ることは、必ず全部成就するということでした。」(諸書の代表として詩篇となっている。) イエス様に対する預言は何百もあると言います。どこで、どのように生まれ、どんな死に方をす るかなど。それらのみことばをことごとく満たしたのはイエス様のみです。 このようにイエス様は単なる偉人、ではなく1400年以上前から多くの聖書記者によって証言さ れた救い主だったのです。 ではどのように救うのでしょうか?ルカの福音書の並行箇所(同じ事柄を扱った箇所)にこう あります。イエス様がモーセたちと何を話したか書かれています。

ルカ 9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について いっしょに話していたのである。 「ご最後」とは十字架上での死を指します。旧約聖書にあらかじめ示されて、人の罪を負うた めに悲惨な死を遂げられたことを教えています。 ここで「ご最後」と訳された言葉はエクソドス、七十人訳という旧約聖書で出エジプト記にあ たる書に使われています。(使徒たちも用いたと言われる)

イエス様の最後、十字架は第二の出エジプトだということです。 どうゆうことでしょうか?紀元前1500年ごろ、イスラエルの民はエジプトの奴隷として囚わ れていました。しかし、神様の超自然的な介入によりエジプトは裁かれ多くの人が死にました。 その時、エジプトの中にいたイスラエルの民は裁きの中どのようにして守られたのでしょうか? 神様が命じた通り、子羊を屠り、その血を鴨居に塗ることによってです。そうして守られ、エジ プトの支配から逃れることができたのです。 同じように、イエス様は罪の支配にあるこの世に囚われていた人々をご自身の血によって裁き から守り、信じるものたちをこの世から救い出しました。 この箇所で山、雲、幕屋など出エジプト記をイメージする言葉がたくさん使われているのもそ のためでしょう。 このようにイエス様は旧約聖書に証された救い主なのです。十字架上の死も無駄な死や不幸な 出来事、ではなく神の計画のうちにあったのですね。

2、弟子たちの反応 4~6節
マタイ 17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、 すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのため に一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 いかにもここがペテロさんらしいところですが、いらんことを言うというか、思ったままをい うというかそうゆうとこありますよね。 これに対して神様が雲の栄光の中から語りますね。雲は神様の臨在を表す表現です。(出エ 19:9)
マタイ 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がし た。 神様は雲の中からペテロの話を遮り、聞きなさいとおっしゃります。もちろんこれは単に聞く だけではなく、聞いて従いなさいということです。イエス様の受難告知を信じなかったペテロさ んには耳が痛いですね。 まず聞いて、従う、行動するという順番が大事ですね。聞く前に行動しても間違った行動に なってしまいます。いつもみ言葉に耳を傾け、みこころを探る必要があります。 ペテロさんのこの振る舞いにも何か焦りのようなものを感じます。というのも数日前「引き下 がれ、サタン」と言われたばかりだからです。 ペテロさんはどこか自分ができる人、気が利く人、優秀な人であることを主張しようとしてこ のようにでしゃばったのではないかと思うのです。これは私たちの日常生活にもよくあることで す。 自分の優秀さ、能力をひけらかして自己主張する。これは自分を捨てる道、自己中心を捨てる 道とは真逆です。 私たちは生まれながらいろんなものと比較されていますから、何かこういった自分を主張す る、認めてもらいたいという欲求があると思います。 「私たちの人生に生ずる悲劇の一つは、真の自分とは何かを見失い、必要のないものを証明しよ うと多くの時間とエネルギーを無駄に費やすことです。私たちは神に愛されている神の娘であり 息子です。それは神に愛されるにふさわしいことを私たちが証明したからではなく、神の方から 自発的に私たちを選んでくださったからです。」ヘンリー・ナウエン 神のみ前において自分が優秀だからよけい愛される、認められるという考えは捨てましょう。 神はあなたをあなたのままでキリストのゆえに愛しておられるからです。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。…」これはイエス様が洗礼の時にも神様 に語られた言葉ですね。宣教の始まりに語られました。 いよいよ十字架の道を歩み始めたこの時にもイエス様を励ますために言われたのだと思いま す。 この言葉はキリストを通して、洗礼を受けた私たちにも語られた言葉だとルターは教えていま す。 キリストにあって私のことも愛する子と言ってくださるんですね。「こんな罪人は神様も見捨 てるだろう」と思うこともあるかもしれません。焦って自分が良い人間であることを証明しよう とする時もあるかも知れません。 しかし神の前にそんな必要はないのです。全てご存知の上で、それでもなお、あなたを喜ぶと おっしゃってくださるからです。 「お前はダメだ」「役立たず」など否定的な言葉がけをされると、人はそのようになっていくそ うです。逆に良い言葉、肯定的な言葉がけをするとそれに応えようとし、変わっていきます。 人間の言葉ですら、こんな力があるなら言葉によって世界を造られた力ある神のみことばに力 がないわけがありません。「神様が喜ぶもの」になっていくのです。

マタイ 17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。 神の臨在の前に罪あるものはひれ伏します。(ダニエル 8:18、黙示録 1:17)神様は罪を決し て受け入れない、故に罪あるものはそのみ前に決して立ち続けることができない恐ろしい方でも あります。罪とは何でしょうか?神様に逆らう心、神なしで生きていこうという傲慢、自己中心。 しかしそんな罪人にこう言ってくださるんですね。

マタイ 17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」 と言われた。
マタイ 17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであっ た。 罪人が父なる神のみ前に恐れることなく起きて立つことができるように、神の御子が人となっ て来られた。彼らが目を上げてみると、栄光の輝きを失った平凡な人間、イエスの姿でした。 なぜでしょうか?私たちが神のみ前で、さばきを恐れ、怖がることなく立つことができるため です。手を触れとは親愛の情、思いやり、慈愛をあらわしています。 神の権威と栄光を持つ方が、私たちと変わらない人となって来られた。それは私たちをさばく ためでなく、ゆるすためです。あなたはこの赦しを受け入れたでしょうか?

ピリピ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ピリピ 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人として の性質をもって現れ、
ピリピ 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 私たちを救うためにご自身の栄光を捨てられ、近づかれ、手を触れて救いを与えられました。 ここの「起きなさい」とは復活させる、とかよみがえらせるという意味もありますね。 イエス様を信じるものには親しく触れてくださり、さばきを逃れ、よみがえることが約束されて いることを覚えましょう。 この出来事は現代の私たちに何を教えるでしょうか?それは苦難を通らなければ栄光はないと いうことです。 イエス様は復活という栄光を得る前に十字架という苦難を通らなければなりませんでした。そ れはイエスさまに倣う私たちも同じです。

ローマ 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受 けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人で あります。
ローマ 8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれ ば、取るに足りないものと私は考えます。 苦難はイヤですね。できれば楽してのんびり生きたいものです。しかしイエス様は自分の十字架 を負いなさいとおっしゃいました。

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思う なら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 十字架を負う、自分自身を否定し自己中心を捨てて神様の御心に従い使命に生きるということ ですね。その中には当然苦難、困難もあるわけです。 しかしそれを積極的に負いなさいとイエス様はおっしゃいます。父なる神も「彼の言うことを 聞きなさい」とおっしゃいます。 問われているのです。あなたは自分自身の命を固く握って、自己中心に生き、滅ぶか。それとも 自分のいのちを私に預け、本当に生きるものとなるか。 イエス様の栄光の姿はその先に得る栄光がどのように素晴らしいものかをあらかじめ示してい ます。求められているのはそのような信仰に生きる姿勢です。それを知るなら、苦難や困難が主の 栄光に与るプロセスのひとつであるとわかります。 ペテロは皇帝ネロによって殉教の死を遂げたと言う伝承があります。ヤコブもまた12使徒で初 めての殉教者となりました(使徒の働き 12:2)。ヘロデ・アグリッパによって処刑されたのです。 ヨハネは信仰のゆえにドミティアヌス帝によってパトモス島というところに流刑にされました。 (黙示録 1:9) 要するに3人とも主と同じ苦難にあずかったということですね。それぞれが主の栄光の姿を心 に留め、励まされていたことだと思います。 水野源三さんをご存知でしょうか?瞬きの詩人と呼ばれているクリスチャンの方です。 長野県埴科(はにしな)郡坂城町で、1937年に生まれましたが、9才のとき、赤痢の高熱で全 身マヒの体となり言葉を話すことも出来ませんでした。 12才のとき、初めて聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになったそうです。 母の手助けで、五十音図を瞬きで指定する方法で、多くの詩を作り、1984年、47才で天に召 されました。坂城栄光教会内には今でも水野源三記念コーナーがあるそうです。 「苦しまなかったら」(新聖歌 292 番)

もしも 私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった もしも おおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった この方にとって苦しみは神の愛を知るために必要なことだったのです。苦しみを通して主の愛 を知り、変えられ、栄光に与るものとなったのです。 初め水野さんのことを知り、「瞬きしかできないのにすごいな」という感想でした。しかし瞬 きしかできない「のに」ではなく、瞬きしかできない「から」このような働きをできたのだと考 えを変えられました。もちろん、その苦難、困難を軽視するわけではありません。 自分では何もできない、どうしようもない、神様に助けてもらうしかない場所に置かれて、神 様を深く知ったのではないでしょうか。 自分の経験を見ても祈るしかない状況になった時、より一層神様を身近に感じたものです。 2コリ3:18

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死を打ち破り、命を与える方は苦難を栄光に変える力があることを信じましょう。 私たちも苦難の多い人生かも知れません。しかしその先に栄光の主のみすがたがあることを信 じ、この一週間もキリストに従っていくことができますように。