信仰に生きるとは どのようなことなのか?

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:西尾 信哉

御言葉:詩篇 42 

トピック:人生

メッセージ原稿

指揮者のために。コラの子たちのマスキール
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
4 私はあの事などを思い起こし、御前に心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から 私はあなたを思い起こします。
7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。
8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。
11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

詩篇42
Be Thou My Vision
あなたこそ我が望み
Be Thou My Vision
傷跡

詩篇42
今日は、リビングプレイズの「鹿のように」でも有名な詩篇42篇から、信仰に生きるということはどのようなことなのかをご一緒に考えていきましょう。

詩篇の多くは、もともと神様を賛美するための歌でした。ですので、いろいろな表題がついています。たとえば、「フルートに合わせて」「弦楽器にあわせて」とかです。今日読んだ詩篇42篇の表題には、「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」と書かれています。「コラの子たち」は当時、聖歌隊で奉仕をした人たちです。レビ族のケハテ氏族の一人コラの子孫です。コラというと、アロンとモーセに反逆して、生きたまま地の中、陰府に落とされた人です。神のあわれみによって、その子孫で残された者たちがいました。そして、ダビデの時代には、礼拝賛美を導く奉仕者になりました。

そして「マスキール」の意味は「指揮」です。神を賛美する者たちを指導し、指揮する意味があります。

さて、今日の箇所である「詩篇42篇」は、大変な苦悩の中で書かれた詩篇です。この詩篇を通して苦しみの中にあっても希望を告白することが私たちの信仰生活にとても大切なのだということを学んでいきたと思います。

1魂の渇き

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

この詩篇の作者の魂は、とても渇いていました。イスラエルは、日本と違って、いつも水が豊かな場所ではありません。国土の多くは砂漠地帯であり、乾季になると多くの川は枯れてしまいます。緑はポツポツとしかありません。私たち日本人の感覚からすると鹿は緑豊かな森に生きているイメージですが、実際には非常に乾いた土地に暮らしているのです。乾季になると水の流れは途絶え、谷底に僅かに水が流れているのです。

そこで、鹿は、少しだけちょろちょろ流れている水を求めて谷底まで下っていくのです。もちろん、乾季には食べ物が少なくなりますので、オオカミなどの肉食動物は、水を飲みに来るところを狙い、谷底で待ち構えているといいます。それでも、水を必死に求め、危険を冒して谷底に降りてくるのです。この作者は、自分の姿をその鹿の姿と対比しているのです。

42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

この詩篇の作者は、当時、礼拝の中心地であったエルサレムから遠く離れざるを得ない状態にあったようです。エルサレムに行くことができず、神様の御前で礼拝することができない状況でした。この作者は、苦しみの中で、魂の渇きを覚えていました。

42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

とくに、苦しんでいたのは、「どうして、まことの神様を礼拝していた私がこんな惨めになるのだろう」「神様が生きているなら、どうしてこんな事態をほっておかれるのだろう」という思いでした。聖書には、神様が私たちによくしてくださることがたくさん書かれています。ですから、苦しい時には、なぜこんな苦しみが襲ってくるのかという思いが起こります。しかも、周りの人々からは「おまえの神はどこにいるのか」というあざけりの声が聞こえてくるのです。

この箇所を読むと、ヨブ記に出てくるヨブの妻の言葉を思い出しますね。ヨブが突然すべての財産と子どもたちを失い、しかも全身に悪性の腫物ができて苦しんでいたとき、ヨブの妻は、「こんなひどいことになっても信仰を持ち続けるのですか。信仰なんか持っていても何の意味もない。くだらない。いっそ神様をのろって死になさい」と言ったのです。これは、実に世の中の多くの人の考え方を代表している言葉だと思います。

しかし、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言いました。しかし、それからしばらくの間、ヨブは絶望との壮絶な戦いを経験しなければなりませんでした。あまりの苦しみに、「私なんか生まれて来なければよかった。私の生まれた日はのろわれよ」と叫んだのです。ヨブを最も苦しめたのは、「神様は、私のことを本当に理解してくださっているのだろうか」という心の渇きでした。ちょうど、今日の詩篇の作者と同じようにです。私たちもそのような状態に陥ることがあるでしょう。そんなとき、どのような信仰のあり方が必要なのでしょうか。

私たちも、調子の良いときは、何も問題はありませんが、突然、問題や苦しみ、病気などが起こると、とたんに「神様は、なんでこんなことをなさるのか。神様が遠くに感じられる」。このように感じてしまうことは無いでしょうか?

人生最大の困難の中で、渇きを覚え、苦しみが襲ってきた時、この作者は「こんな苦しみがあるのだから、神様などいないのではないか?」と告白したのではなく、生ける神を慕い求めたのです。

42:4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

私達もそうだと思いますが、苦しい時や辛い時に、楽しかった時のことを思い出します。この詩篇の作者も喜びと感謝の声を上げ、祭りを祝う群衆とともに神の神殿に行ったことを思い出しています。神様と親しい交わりが確かにあったのです。

でも、思い起こすのはいいのですが、ただ「昔はよかった。でも、今は駄目だ」で終わってしまっては意味がありません。今を否定し、無益な回想をするだけというのは虚しいですね。この詩篇の作者にとって、昔、喜びと感謝をもって神様を礼拝したことを思い起こすことは、大きな慰め、力となっていきました。昔、みんなと一緒に喜びと感謝をもって礼拝をささげた神様は、今の全く違う環境の中にもいてくださる生ける神様ではないか、ということ思い起こしているのです。

42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

大変な心の葛藤の中で、作者は「なぜ、お前は絶望しているのか」と自分に問いかけています。そして、自分に向かって「神を待ち望め」、「なおも神をほめたたえる」とあえて自らに言い聞かせています。

ここの「なおも」が心に響きます。絶望している自分がいるという事実がある。しかし、それでもなお、神様をほめたたえる、という意味です。自分に言い聞かせるように「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」と言っているのです。

この作者は生ける神を切実に求めています。しかし、状況は簡単には改善しない。ですから、神様の働きを待つことが重要です。もちろん何もしないでただ待っているということではなくて、与えられた毎日を誠実に生きながら待つのです。

私たちは、なかなか待てないことがあります。自分の考え通りにならない時に、待ち続けることができず、焦り、恐れ、不安に駆られてしまうのです。だから、この作者が行ったように、何度も、何度も「神を待ち望め。私は、なおも神をほめたたえる」と自分に繰り返し言い聞かせることが重要なのです。
私たちは、自分の考えている時間と神様の時間がなかなか一致しないので焦ります。そして、待てないのです。そして、委ねることをしなくなってしまうことがあるのです。でも伝道者の書3章11節には、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれていますが、頭でわかっていても心から待つことは難しい時があります。ですから、「神を待ち望め」と自らに語りかけ続けるのです。

42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山からという言葉が出てきますが、これはイスラエルの最も低い場所と最も高い場所の二つを上げています。ヨルダンは死海があるところで、死海は標高-430mメートルで、現在、世界でもっとも低い場所にある湖です。ヘルモン山はイスラエルで一番高い山です。

つまり、イスラエルのどんなところにいても、それが自分の慰めとはならず、自分は絶望しているのですが、いつも神様のことを思い起こすということです。

42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

落ち込んでいる時や苦しい時、まるで濁流に飲み込まれたかのような心境になることがあると思います。様々な困難や苦労が自分に起こったことを表すのに、イメージしやすいと思います。

42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。

私たち、苦しみの日には、ずっと暗い夜道が続くような気がしてしまいますが、実際にはそのような日々の中でも、昼になり明るくなることがあります。

例えば、苦しみの中にあっても、早朝、外に草木があるのを見て、これも主が造られたものであり、主がその知恵と知識によって美しく造ってくださっていると感じることがあるでしょう。神様がこの世界をこんなにも素晴らしく作り、そして、私たちにも良い計画を備えてくださっていると感じることもあるでしょう。

42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」

42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。

42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

もちろん、問題が解決しているわけではありません。未だ絶望の中にいるかもしれません。しかし、そのような時に、私たちは、私たちのたましいに言い聞かせるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

神様の様々な恵みを思い起こしながら、苦しい時、辛い時に、自分自身に向かって「わがたましいよ。なぜ、絶望しているのだ。なぜ、思い乱れているのだ。神を待ち望め、なおも神をほめたたえよう」と繰り返し言い聞かせることが必要になる時もあるでしょう。しかし、その涙の叫びの傍らに恵みが備えられていることも覚えていてください。困難な中でも、なおも生ける神様をほめたたえ、神様を待ち望む、そのように新しい1週間も歩んでいきたいと思います。
 

神様と交わりを持っている人たちのしるし (パート2) 

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:クリス・リズデン

御言葉:第1ヨハネの手紙1:5~2:2

トピック:信仰

聖書箇所:第1ヨハネの手紙1:5~2:2
タイトル:「神様と交わりを持っている人たちのしるし」(パート2) 
メッセンジャー:クリス・リズデン

アウトライン

  1. 彼らは自分の罪を隠しません。(6 節)
  2. 彼らは光の中を歩む。(7 節)
  3. 彼ら自身についての本当のことを認めます。自分たちの罪の現実を 否定する事はしません。(8, 10 節)
  4. 彼ら自身の罪を告白します。(9 節)
  5. イエス様は私たちの弁護です。(2:1)
  6. イエス様は世全体の罪のために犠牲です。(2:2)

賛美

私の望みは主イエスだけにある

私の望みは主イエスだけにある

土の器

土の器

メッセージの原稿

(1) B-01

先月私は、第一ヨハネの手紙  1章5節から 2章2節までのところのメッセージをしました。主に1章5節の「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と言うところに焦点を当てました。神様は完璧に純粋で、罪がありません。でも、私たちは人間として 罪深い性質があります。だとしたら、どうやって 私たちが神様と交わりを持つことができるでしょう? イエス・キリストは、私たちの罪の罰を支払うために 十字架の上で死なれました。信仰を通して 私たちがイエス・キリストの赦しを受け取るときに、それと同時に 私たちは、キリストの正しさを 受け取るのです。キリストが私たちのためにしてくださったことのゆえに、私たちは神様と交わりが持てるのです。

(2) B-02

今日私たちは、第一ヨハネの手紙1章5節から 2章2節の続きを 学びます。「神様と交わりを持っている人たちの しるしは、どんなものだろう? 」と言う疑問について 考えます。また、もう一つ、「クリスチャンたちは 自分たちの人生、生活の中の罪に対して どう対処しているのか?」と言う事についても考えます。第一ヨハネの手紙1章5節から2章2節までを読みましょう。(Read 1John 1:5-2:2)

  6節では、神様と交わりを持っている人々の 最初のしるしが わかります。彼らは自分の罪を隠しません。ここの3つの節では、「もし、私たちが なになにと言うなら…」と、始まっています。キリストを信じる者として、私たちが言っていることと、私たちの行動が一致していることが、ものすごく重要です。神様は光です。なので、私たちが本当に神様と交わり、フェローシップを持っているならば、私たちは暗闇の中を歩みません。ヨハネが、この箇所や、別の箇所でも使っている「歩み」と言う言葉は、人の人生や生活のパターンのことを言っています。人はどんなふうに 矛盾のない生き方をしているのでしょう? もし人が、暗闇の中を歩んでいるなら、その人は罪に支配されたパターンという 矛盾のない生き方をしています。だから、この人 本人が、何と言おうと、この人は神様との交わりの中には いません。彼らは誠実に人生を 生きてはいません。

(3) B-03

ローマの時代、ある彫刻家たちは、彼らの作った彫刻の欠陥や欠点を隠すために、ロウを使いました。ロウが溶けてしまうほど 彫刻が暑く ならなければ、その欠点は見つかりません。一方で、ある正直な彫刻家たちは、彼らの彫刻の上にラテン語で 「sine cera」と書きました。「sine cera」は、「ロウは使っていない」という意味です。正直じゃない彫刻家たちのように、私たちは人間として、自分たちの欠点を 隠そうとする性質があります。エデンの園で、アダムとエバが神様に背いた後、彼らは自分たちの裸と 恥を隠すための覆いを、つくりました。私たちが神様に罪を犯すとき、私たちは自分の罪を よく隠そうとします。神様と交わりを持っている人々は、彼らの罪を隠そうとしません。むしろそれとは逆に、7節では、神様と交わりを持っている人たちは、光の中を歩むと 言っています。光の中を歩むとは、どういう意味でしょうか? 5節では、神は光であると言っています。その意味は、神様は完璧に100% きよく 聖なる方で、正しい方であるという意味です。クリスチャンたちが光の中を歩む時、それは 彼らが正しい生き方をしているという意味です。彼らは、神様を喜ばせるような 生き方を しています。それは、罪を犯さないという意味ではありません。その事は、8節から10節でも明らかです。彼らの生き方のパターンが 神様を喜ばせているという意味です。神様を喜ばせることが、どういうことなのか、私たちはどうやって 知ることができるでしょう? 神の言葉が私たちにそれを教えてくれます。なので、光の中を歩んでいる人たちは、神様の言葉に従って生きています。

(4) B-04

もし私たちが、光の中を歩んでいるなら、私たちの罪を隠すことができません。なぜなら、神の光は、私たちの人生の中のいかなる罪も あらわに 照らし出すからです。そして、私たちは正直に 罪を神様の前で、告白することができます。皆さんは、人生の中で 自分の罪を隠そうとしたときのことを、思い出せますか? 私はもちろん 思い出せます。私たちが自分の罪を 覆い隠そうとする時に、その事は、私たちの神様との交わりの邪魔に なります。でも、私たちが光の中を歩むなら、7節にあるように2つの素晴らしい結果を見ることができます。まず初めに、私たちは、お互いの交わりを保ちます。「お互い」とは、他のクリスチャンたちのことを 意味しているといえます。私たちが光の中を歩んでいないなら、他のクリスチャンたちとの交わりも、うまくいかないというのは、本当にそうだと思います。他のクリスチャンの仲間たちと正直に オープンにつながる代わりに、自分の罪を隠そうとすることに 私たちの気持ちが集中するでしょう。それは、とても嫌な気持です。でも、そんな状態でいる必要はありません。もし私たちがクリスチャンならば、私たちの内側に、聖霊が住んでいます。聖霊が私たちを、光の中を歩むように助けてくれます。

(5) B-05

私たちが光の中を歩むときに もたらされる2つ目の素晴らしい結果は、御子イエスの血が、すべての罪から 私たちをきよめてくれると いうことです。「きよめる」という言葉は現在形です。なので、十字架の上で流されたイエスの血は、現在進行形で、今 現在の罪と、そして 未来の罪から 私たちをきよめてくれると いう意味です。イエス様はまた、私たちに 過去の罪からの赦しも、与えてくれました。私たちは毎日この「きよめ」られることを 必要としています。なぜならば、人間として、私たちはアダムから受け継いだ 罪の性質があるからです。私たちは毎日、罪と格闘しています。だから、私たちには神様の恵みが ものすごく必要なのです。私たちが救いのために キリストに信仰を置いたとき、私たちは新しい性質を受け取ります。神様を ほめたたえます。この 神様を見上げ 信頼するという 新しい性質は 神様を喜ばせる生き方を 私たちがするのを 助けてくれます。

(6) B-06

8節と、10節はとてもよく似たことを言っていますが、その深刻さの度合いに 違いがあるように見えます。8節に出てくる人々は、罪は無いと言っています。彼らは自分たちに 嘘をついています。6節に出てくる人々は、彼らの周りの人たちに対して 嘘をついています。10節にある状況は、もっとひどいものです。ここに出てくる人たちは 罪を犯していないと 言っています。このことは、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、それは神様の言葉と 全く正反対のことを言っているからです。ローマ人への手紙3章23節では、「全ての人は、罪を犯したので、神からの栄養を受けることができず」と言っています。神様と交わりを持っている人たちは、彼ら自身についての本当のことを認めます。彼らは、自分たちの罪の現実を 否定する事はしません。

(7)B-07

それどころか、むしろ 彼ら自身の罪を告白します。その事は 9節にあります。ここは、聖書の中でも最も美しい箇所の中の1つです。

この箇所は、神様からの素晴らしい約束を 私たちに与えてくれます。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを きよめてくださいます。」イエス様が十字架の上で死んだ時、私たちの罪が赦される道を与えてくださいました。これは、私たちの現実の罪の性質に、解決を与えてくれます。イエス様の血は、過去、現在、そして未来の罪の赦しを与えてくれます。また、私たちを神の家族の一員としてくれます。そして神様は私たちの父となります。これは変わることがありません。私たちがこの地上の自分の父親にそむく時、私たちと自分の父親との 関わり 交わりがダメになります。でも、それでも私たちはまだ家族の一員であり、何ものも それを変える事はできません。もし私たちが、父親に赦しを乞うならば、父親との交わりは 回復します。私たちの天の父なる神様とも 同じことです。もし私たちが キリストに従うものならば、私たちは神の家族の一員です。その身分は、変わることがありません。でも、もし私たちが神様に対して 罪を犯すならば、神様と私たちの交わりが 傷つきます。私たちは、神様のもとへ行って、自分たちの罪を 告白する必要があります。私たちがそれをする時、神様との交わりが 回復します。

(8)B-08

9節の 私たちの罪を言い表す、告白するとは、どういう意味でしょうか? 私たちが自分の罪を 言い表すというのは、私たちの罪のみにくさを、私たちが認めると いうことです。神様は罪を憎まれます。 皆さんや私も、罪を憎むべきです。私たちが自分の罪を言い表す時、神様は私たちを赦し、私たちを きよめてくださいます。それはなぜでしょう?  神様は誠実を尽くしてくださる方で、私たちの罪を赦したいと望んでおられる方だからです。また神様は正しい方で、私たちの罪を赦すことができます。次の2つの理由から、神様は私たちを赦すことができます。まず1つ目に、神様は 「神」なので、私たちを赦すことができます。2番目に、十字架の上でイエス様が 私たちの罪の罰を支払ったので、私たちを赦すことができます。

      裁判官は罪を 見逃すことができません。もしそれをすれば、不正になります。それと同じように、神様は私たちの罪を 見逃すことができません。もしそれをするなら、不正になり、神様の性質に反することに なります。罪の罰、ペナルティーは支払われないと いけません。でもイエス様がご自身の赦しを受け取る すべての人のために、その罪の罰を支払ってくださいました。神様をほめたたえます。

(9)B-09

私たちの救いための キリストの地上での働きは、完了しました。でも、第一ヨハネ2章1節では、イエス様は すべてのクリスチャンたちのために 今も働いていることがわかります。まず初めに、2章1節にこの手紙を書き送る理由が 書かれています。ヨハネは、私たちが罪を犯さないようになるために この手紙を書いていると、言っています。キリストを信じる者として、罪を犯すことを避ける事は 可能です。クリスチャンとして生きていくときの 大切なゴールは、私たちがキリストに、 似たものと なっていくことです。私たちが ますますキリストと親密に人生を歩む時、私たちは前よりも 罪を犯さなくなります。けれども、この世で私たちが生きている限り、私たちは罪を犯します。それが現実です。でも、私たちが罪を犯す時、2章1節では、イエス様が、天の父なる神様の前で 弁護してくれると言っています。ヨハネの黙示録12章10節では、悪魔が絶え間なく 神の御前で私たちを訴えていると 言っています。悪魔が私たちをそのように責めるとき、天の父なる神様の前で 私たちを弁護するために イエス様がそこにいます。私が罪を犯すとき、たぶんイエス様はこんなふうに言うでしょう。「クリスが罪を犯した。それは事実だ。でもその罪の罰、ペナルテイーの 代価は、私の血によって支払われた。だから、私に請求書をよこしなさい」なんと素晴らしい救い主でしょうか!

(10) B-10

2節では、十字架上のキリストの犠牲の 驚くべき力を 私たちに示しています。キリストの犠牲は、私たちの罪の重い代価を 完全に支払うことができます。なので、神様は 皆さんや私を赦すことができます。 驚くべきことに、キリストの犠牲は また、この全世界の罪の代価を支払うためにも十分です。でもこれは、すべての人が救われると言う意味ではありません。キリストの犠牲は、キリストを信じる世界中の全ての人の 罪の罰を支払うために、充分であると、いうことです。私たちを許すために イエス様がしてくださったすべてのことを思い、神様をほめたたえます。そして、私たちが神様の光の中を歩むなかで、神様が今も私たちを赦し、きよめてくださっていることを感謝し、賛美します。

お祈りしましょう。 

罪人に近づかれる神

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:城靖博

御言葉:マタイ9:9~13

トピック:罪人

聖書箇所:マタイ9:9~13
タイトル:「罪人に近づかれる神」
メッセンジャー:城靖博

アウトライン

  1. 主は招き、罪人たちとともに過ごす 9、10節
    • 「わたしについて来なさい」:イエスに従うなら一生
    • 「家で食事をしていると」: 罪人と交わる神
  2. パリサイ人の間違い 11節
    • 人を間違いとし、自分を正しいとする危険
    • 人は誰かを悪しき敵、つまり「悪人」とみなせば、これを自分の基本概念とし、そこから考えついたもの、それと対をなすものとして「善人」を思いつく  ーそれは自分自身だ!フィードリッヒ・ニーチェ
  3. 病人とはだれか 12節
    • すべての人 ローマ 3:23

マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』

形式的な信仰生活ではなく、心のこもった交わり

賛美

アメイジンググレイス

アメイジンググレイス

This I Believe

This I Believe

メッセージの原稿

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罪人に近づかれる神 マタイ9:9~13
1、主は招き、罪人たちとともに過ごす 9、10節
マタイ 9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご 覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。 今日はペテロやヨハネたち12使徒と呼ばれるイエス様が特に愛された弟子たちのうちの一人 マタイの召命(神の恵みによって神に呼び出されること)の記事です。イエス様はマタイを見て、 ご自身の元に招き、弟子としました。取税人とは何でしょうか?当時のユダヤはローマ帝国に支 配されていましたので、税金を払う必要がありました。取税人とはローマ帝国の手先となって同 じユダヤ人から税金を徴収、取り立てる人です。しかも税金を取る時、余分にとって自分のもの とすることも珍しくありませんでした。なので当時のユダヤ社会からは裏切り者、卑怯者とみら れ、忌み嫌われていました。そんなマタイがイエス様に呼ばれ、弟子となります。マタイは裕福 だったでしょう。それなりに満ち足りた生活を送っていたでしょう。お金があり、ローマ帝国の 後ろ盾がありました。しかし人々からは妬まれ、蔑まれ、嫌われていた。そんな生活で何か虚し さを感じていたのでは無いでしょうか?お金をたくさん手に入れた。しかし何かが虚しい。そん な彼をみて、イエス様は彼を招きました。「わたしについて来なさい」この言葉は「私に従い続 けなさい」とも訳せます。ただ一時的に従いなさいではなく、生涯従い続けなさい、ついてき続 けなさいということです(現在時制命令法)。このように一旦イエス様に招かれ、従う決心をし たなら、それは一生です。自分の全生涯を投じてイエス様に従っていくのです。マタイにとってそ れは特に後が無い決意を必要としました。というのは取税人の仕事を捨てたなら、もう戻ること はできないからです。他の12使徒、たとえばペテロなら漁師の仕事を捨てても戻ることができ ます。(というかイエス様が十字架にかけられた後、いったん漁師に戻ったようです(ヨハネ2 1:3))しかし取税人は一度その仕事を退いたら戻ることはできないでしょう。 しかも当時のユダヤ社会では仕事は世襲制、すなわち親の仕事を引き継ぐのが普通でした。 (ヨハネも親と一緒に仕事をしている(マタイ4:21))。つまりマタイは自ら選んで人から嫌 われてでも金儲けができる仕事を選んだということです。だがそれをイエス様の招きに応じて捨 てたのです。それは大変な決心、決意だと思います。だが彼はすぐさま招きの言葉に反応しまし た。私たちもイエス様の招きにすぐさま応じる必要があるのではないでしょうか。もう少し立派 になったらとか、いい人になったら信じようとか。アレコレの罪や習慣をやめれたら、もっと善 行を積んで洗礼を受けようとか。ではなく、呼ばれたと感じた時がイエス様についていく時です。 マタイは自分がイエス様にふさわしいかどうかではなく、イエス様が呼ばれたことに応答した のです。これは大事なことです。というのはイエス様に従うのにふさわしい人は誰もいないからで す。誰も神のみもとに行く資格など持っていません。というのはすべての人は罪を犯したからで す。人となられた神、イエス様の招きがあるからこそ、そこに行くことができるのです。
マタイ 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イ エスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。 その後彼はイエス様を自分の家に招きました。「家で食事をしていると」とありますがこれは 聖書の他の箇所を見るとマタイ(レビ)が自分の家にイエス様を招いて食事したのです。(ルカ 5:29)イエスさまの弟子となったことが嬉しかったのではないでしょうか。多くの仲間を招 きます。しかし嫌われ者の取税人マタイの友人ですから、同じような立場の人々です。ここでの罪 人とは宗教的習慣や儀式を守れない人たちのことです。そのような人々を宗教的指導者であった パリサイ人はさげすみ、見下し、忌み嫌いました。取税人も先ほど説明したように社会の嫌われ 者です。それを見たパリサイ人たちはけしからんとイエスの弟子たちに文句を言います。次にその パリサイ人の言葉を見てみましょう。 

2、パリサイ人の間違い
マタイ 9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あな たがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」 去年吉本興業のお笑い芸人、雨上がり決死隊というコンビの宮迫さんのいわゆる闇営業問題が 話題になりました。事務所を通さずに仕事を受け、反社会的勢力が主催する会合に出席したとい うのです。彼は記者会見で嘘をついたということもあり、世間から非難を受け、謹慎処分となり ました。このような厳しい処分を受けたのも反社会勢力に対する吉本興業や社会の姿勢の現れだ と思います。 パリサイ人たちが非難するのも闇営業の問題を考えるならわかる気がします。イエス様も反社会 的とみられていた人々、罪人や取税人たちと親しく食事をしました。罪人や取税人と食事を共に し親しく交わるとは何事だというわけです。そのために当時の宗教的エリート、パリサイ人から 非難を受けたのです。私たちは問題のあると思っている人、要するに嫌っている人に共感する 人、親しくする人を非難する傾向があるからです。ある人を悪人、ある人を嘘つき、ある人をど うしようもない人と決めつけ、レッテルを貼り、自分と切り離すのです。そのような人と親しくす るものも仲間だと思い同じレッテルを貼ります。 だがイエス様はこのように人を見ませんでした。もちろん悪は悪、罪は罪として決して受け入れ ません。しかしその人自身をありのままで受け入れ、神に愛されたかけがえのない価値あるもの としてみるのです。罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますね。確かにその人は罪を犯した が、罪を犯すにはその人なりの事情があったろうから寛容でいなさいという態度です。イエス様も マタイのうちにある問題や虚しさをじっとみ、招きました。そして罪人や取税人らと食事し、親 しく交わりました。イエス様は罪の行動と、その人を一緒くたにしないのです。 なぜなら人は皆神のかたちに造られ、神様との交わりのうちに生きるものだからです。しかし その神のかたちは罪によって破壊されてしまいました。それで神との交わりが破壊されてしまっ たのです。イエス様は十字架にかかることによって私たちの神のかたちを回復し、私たちが神と 再び交わることができるようにしてくださいました。確かにこの人は間違いを犯し、極悪人でど うしようもない人かもしれない。しかし神のかたちが回復する可能性が残されているのだと。私 たちも考えるべきではないでしょうか。 神様はその人の行動もみますけど、何よりその人格全体をみる方です。 だが私たちは自分の都合の悪い人、嫌いな人、気に入らない人にレッテルを貼り、排除しよう とします。「あの人はどうしようもない人だ」と。それがまるでその人の人格そのものであるよ うに、だがそれは正当なのでしょうか。 さらに相手にレッテルを貼り、自分と切り離すことはさらなる危険を伴います。それは自分は この人と違うという態度を生み出すのです。 ニーチェという哲学者の言葉が本に載っていました。 人は誰かを悪しき敵、つまり「悪人」とみなせば、これを自分の基本概念とし、そこから考え ついたもの、それと対をなすものとして「善人」を思いつく ーそれは自分自身だ! 誰かにレッテルを貼り、あの人は悪人だといい自分と切り離す時、知らず知らずのうちに自分 の方が正しい、善人だという意識が湧いてくるという事を言いたいのでしょう。それは危険なこ とです。なぜなら相手の持っている問題、傲慢であれ、快楽、強欲、高慢であれ、それは態度の 差はあれ誰もが持っているものだからです。最近ある芸能人が不倫をして、世間から大バッシング を受けました。確かにそれはいけないことですけど、その存在そのものまで価値のないものであ るかのように扱ってしまう。そのように過剰に反応してしまうのは自分もそのような性的な逸脱 に対する関心があるからではないでしょうか。故に相手を批判することで自分は正しい、あいつとは違うということを証明したいのかもしれないと思うのです。それは自分のうちのやましさが 生み出す同族嫌悪かもしれません。かえって自分の中にもそのような間違いや思いがあるからこ そそれを否定したいのです。そして自分自身は高ぶったままでしょう。それがパリサイ人たちの 間違いでした。 「あいつらは罪人で取税人だ、そして私たちは善人だイエスはなぜ私たちではなく、あいつら と付き合うのか」というのです。しかしイエス様は決して悪を認めることはなかったが、そのよう な悪の中で苦しみ、悩み、嘆いているそのような罪人をことのほか愛されました。 札幌市東区にある北洋建設という会社があります。従業員60人ほどの小さな会社だが、その3 分の1は出所者だという。これまで500人以上の前科者らを雇用し、その数は法務省から日本一と 言われています。一人の元受刑者を受け入れるのに最初に40万円ほどの費用がかかります。入社 早々に辞めたり、いなくなったりすると、その費用が無駄になってしまうので、正直厳しい、国 の助成金にも限りがあるので、土地を売ったりして費用を捻出しているそうです。ではなぜそこま でして元受刑者を雇うのかというと、こうおっしゃるのです。 「人は仕事があれば、再犯しない」と。 しかし、社員として定着する元受刑者は1~2割だという。入社一日で行方をくらます人も珍し くない。だが社長はその人を信頼し、そのまま受け入れ、まず更生の可能性にかけてみるんです ね。 イエス様も私たちが回復し、救われることを信頼してそこにかけてみる方です。小澤社長が大き な犠牲を払い元受刑者を雇ったように、いやそれ以上に大きな犠牲を払いました。それはご自身 のいのちです。何よりもまずご自身が罪人に近づき、更生する事を願っておられるのです。マタイ を新しい働きに召したように、私たちも召しておられます。 次にパリサイ人たちに対するイエス様の言葉を見てみましょう。

3、病人とはだれか
マタイ 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人で す。 ここではイエス様はご自身を医者に罪を病気にたとえています。私を必要とするのは罪のないも の(丈夫なもの)ではなく病人(罪人)だということです。これは罪のない人がいるということ でしょうか?もちろん違います。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 すべての人は罪人です。これは自分が罪人だと知って、その罪を嘆き、神の憐みを求める人にこ そイエス様は必要でその病、罪を癒してくださるということです。 まず神様に近づくのに必要なのは自分の功績を誇るのではなく、ありのままの自分で近づく事 です。 最強のふたりという映画を見ました。パラグライダーで事故にあい、首から下は全く動かなく なってしまった金持ち、フィリップと。貧しい若者ドリスという男の友情の物語です。実話に基づ いた話だそうです。 介護役を探し、面接会を開いていたフィリップのもとに様々な人が訪れました。私はこれがで きる、こんな経験を積んできた。こんな資格を持っている。いわゆる立派な人たちがやってきま す。しかしその中に刑務所を出たばかりのドリスがやってきて言います。面接をしたが不合格とい う書類にサインしてくれというのです。というのはドリス自身、雇われるなどと夢にも思ってなく て、単に失業保険をもらうために書類が欲しかっただけなのです。だがフィリップはそんなドリス を雇います。ある人がフィリップに忠告をします。あいつは不良で、刑務所帰りだ。そんな男に自 分の介護を委ねるにはあまりにも危険だ、あいつのどこが気に入ったんだ?と。フィリップは言います。「私を障害者扱いしないところだ」と。ドリスは確かに問題があるけれども、フィリップ に全く遠慮しないんですね。金持ちと貧乏人、障害者と健常者、地位のあるものとないもの、こ れらの垣根を越えて、自分を飾らず、ともに遊び、笑い、質問し、飾らずに自分に接してくれるの が気に入ったんです。 神様も自分がこんなに立派なことができる。私を合格にしてください。という人ではなく、ま ず「あなたを愛しているよ」という神様の呼びかけがあり、その呼びかけに応え、ありのままで 御前に出る人を求めています。どこかよそよそしい形式的な交わりでなく、ありのままで飾らない 交わりを求めておられます。ただし罪人が神様との垣根を越えたのではなく、神の側から垣根を 超え、人となられ、罪人の中に入り、あなたに近づいたのです。 パリサイ人たちは自分を病人、罪人だとは認めませんでした。いや、むしろ神に受け入れられ るのは自分たちだと思っていたでしょう。しかし彼らにに拒絶された罪人や取税人は自分が正し くないこと、神に受け入れられない事を嫌というほど知っていたでしょう。そのような罪人をこ とのほか愛されイエス様はやってこられました。罪人のただ中に。彼らこそ愛される必要がある からです。神の恵み、愛が不要な人などいるでしょうか?いいえ。すべての人はありのままで、醜 い自分でも、いや、それならなおさら愛される必要があります。そのような人が神のみもとに大 胆に近づけるように罪なき神ご自身が人の形を取りこの世界に来られたのです。 そうして罪なき方が犠牲になられたのです。医者が病気にかかっていてはそれは医者である以前 に病人です。罪という病を癒すためには罪なき方イエスが必要だったのです。

マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学 んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 神様は人間が神様を愛し、仕えて生きるためにその指針となる律法を与えられました。パリサ イ人をはじめとするユダヤ人は律法を追求し、いけにえなどの律法をことごとく守ろうとしまし た。しかしそれ故に大切なあわれみ、神が自分を憐み愛してくださっていること、また同じよう に自分も他の人を憐み愛すべきであること。それを忘れてしまいました。憐みの故に罪の中でも がいている罪人をご自身のもとに招き、それによって神様に良いとみられる生き方ができるよう になるためイエス様は招かれているのです。そのためにイエス様は罪人の罪を背負って十字架にか かられました。 ウィスコンシン州のミルウォーキー市警に勤務するケビン・ジマーマン巡査は10月12日、 パトロール中に、ある車の登録情報に不備があることに気が付き、停車させました。 車には女性の運転手と3人の幼い子供。チャイルドシートは設置されていなかった。同州では チャイルドシートを設置しないで子供を車に乗せるのは違法だ。 アンドレア・ジャクソンと名 乗った女性は、巡査に事情を次のように説明した。 車は先日、競売で入手した。登録料が払えなくて、情報がまだ前の持ち主のままになってい る。5人の子供がいて、冬に備えて服や靴を買わなければならないので、チャイルドシートにまで お金が回らない……。 ジマーマン巡査はどうしたでしょうか。女性の氏名と住所を控え、違反キップを切ることな く、アンドレアさん一家を解放したのです。 それだけでなくジマーマン巡査は、その足でウォルマートに行き、チャイルドシートを2つ買 い、アンドレアさんの家に行った。そしてビックリしている彼女にこう言った。 「お子さんの安全のためにこれを買ってきました。いろいろ大変でしょうが、この件に関しては 安心してください」

チャイルドシートによって、事故における子供の死亡率は、赤ん坊なら71%、幼児なら4 5%も下がると言います。 長年警察に勤めていたジマーマン巡査はその事をよく知っていまし た。そして車にチャイルドシートを取り付けて、帰って行ったという。 心からの親切に感動したアンドレアさんは、2人の娘と一緒に写ったジマーマン巡査の写真な どをフェイスブックに投稿し、事情を説明し、感謝の言葉を記しました。 「いけにえよりあわれみを」法律によるとアンドレアさんは有罪です。しかし巡査は憐みによっ て彼女を赦し、自ら犠牲を払い、チャイルドシードを買い、取り付けたのです。それは一方的な 恵みです。いわばアンドレアさんの罪、問題、貧しさを自らのものとして負ったのです。それ故ア ンドレアさんは法律を守れるようになりました。彼の愛に応え、法律を破るわけにはいかないと 思うでしょう。それは決して嫌々ではなく、しょうがないからではなく、自ら愛の応答として行 動するものです。このように愛は人格にすら影響を及ぼすものではないでしょうか。いや愛だけ が人格を変えることができる。故にその欠如は多くの場合自分や他人を誤った道に踏み込ませる のです。 イエス様はそのような罪人を招くためにきました。罪人を満たすために一方的に私たちを愛 し、ご自身の命という犠牲を払われました。それ故に私たちは変えられ、律法をまもり、神の喜 ばれるきよい生活を生きることができるのです。私たちもその招きに応答してイエス様に従い続け ていこうではありませんか。

祈りのレッスン

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:レイニ・ストループ

御言葉:創世記 18:22-26; マタイ 7:7-11; ルカ 18:1-8; ヤコブ 1:5, 6; マタイ 6:9

トピック:祈

聖書箇所 創世記 18:22-26; マタイ 7:7-11; ルカ 18:1-8; ヤコブ 1:5, 6; マタイ 6:9
タイトル 「祈りのレッスン / Lessons on Prayer」
メッセンジャー  レイニ・ストループ

アウトライン

  1. 祈りとは / What is prayer?
  2. 祈りの姿勢 / How should we pray?
  3. 祈りの中身 / What should we pray?

賛美

私の望みは主イエスだけにある

私の望みは主イエスだけにある

アメイジンググレイス

アメイジンググレイス

私たちを神から引き離すのは

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:西尾信哉

御言葉:ローマ人への手紙8:15-39

トピック:愛

「私たちを神から引き離すのは」 ローマ人への手紙8:15-39

アウトライン

  1. はじめに
  2. 神の子とされている私たち
  3. 今の時の苦しみは
  4. 被造物のうめき
  5. ともに産みの苦しみをしている
  6. 目に見えない望み
  7. 神様の助け
  8. 神の計画
  9. 私たちを神から引き離すのは


1. はじめに
おはようございます。さて、新型コロナウイルスによる肺炎の流行により、本日はこのようにネットを用いて礼拝メッセージを行うことになりました。
まだ身近にはそれほど罹患された方はそれほどいないかと存じますが、世界的には罹患者が増え続けています。
また、私たちの身の回りでも、学校が一斉休校になるなど大きな社会的影響も出始めています。

昨年は長野県でも洪水で多くの方が被災しましたが、地震や洪水などの自然災害の時や、今回のような厳しい状況の時に、「なぜこのように厳しい目にあうのだろうか?こんなひどいことが起こるなんて、神様なんておられないのではないか?」と感じてしまうことはないでしょうか?
神様の存在が遠く感じられてしまう、そんな気持ちになってしまう経験をお持ちの方も大勢いらっしゃると思います。

今日はローマ8章から「私たちをキリストの愛から引き離すのは」について見ていきたいと思います。

2. 神の子とされている私たち
はじめの15節から17節は前の章からの続きで、御霊について書かれています。私たちイエス・キリストを信じているクリスチャンは、私たちが神の子とされていることを知っています。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼ぶことができるのです。

また、私たちは神の子どもであるので、神の相続人であること、キリストとの共同相続人であることも明確に書かれています。
そうです。私たちは神の子どもとされているのです。
しかしながら、先ほど述べたように、自然災害などの厳しい状況があると、「神様なぜ?」とつぶやいてしまいます。             

3. 今の時の苦しみは
18-25節には今の時の苦しみについて触れられています。
私たちは弱い存在です。将来神様の子どもとされるという栄光が約束されていても、今現在が苦しい状況にあると、つい目の前の事柄で頭がいっぱいになってしまい、神様が約束してくださっている栄光のことを忘れてしまいます。

しかし、思い出して欲しいのです。私たちの罪の身代わりとしてイエス様がどのような苦難を通られたか。
イエス様でさえ栄光の座に着かれるまえに、十字架の死という苦しみを受けられたのです。

ここで大切なのは、「取るに足りない」という言葉です。私たちは今の目の前にある苦しみで、頭がいっぱいになってしまうような弱いものですが、将来に啓示される栄光に比べれば、取るに足りないものに
すぎない、とパウロは言っています。

ここを読むとパウロの苦労がどの程度のものだったか気になりませんか?今の苦労は取るに足りないものと言うことができる程度の苦労だったのでしょうか?

パウロの苦労は、第二コリント11章23-28節に書かれています。どうですか?とても軽いとは言えませんよね。
石打やむち打ちは死と隣り合わせなのです。けれども、これらは軽い患難と言うのです。なぜでしょうか?
それは、パウロが、将来の栄光の重さと、今の苦しみを比べ、将来の栄光のほうが重要であると固く信じているからです。神様が、私たちが受ける苦しみに報いてありあまる栄光を、私たちのうちに用意しくださっているのです。


4. 被造物のうめき
先ほど述べたように、今の苦しみは、理由のある苦しみであり将来約束された望みがある苦しみなのです。
続いてパウロは、19節から22節で、待ち望むことについて説明しています。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいると言っています。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。と書かれています。
「被造物が虚無に服した」とありますが、どういう意味でしょうか?

これはアダムが罪を犯したときのことに起こりました。神様はこの天地を作られた時、全て良いとおっしゃられました。
悪いところが何もありませんでした。しかし、アダムが罪を犯したためが呪われただけではなく、自然界も呪われてしまったのです。(創世記3章17-19)

神様が初めにつくられた地上は呪われていませんでした。もともと、天地をすべて良く造られました。しかし、アダムが罪を犯したことで呪われてしまったのです。
けれども、望みがあります。人間が罪を犯して被造物が全て呪われてしまったように、人間が贖われると、土地も贖われるからです。


5. ともに産みの苦しみをしている
私たちが受けている苦しみは、望みがある苦しみだと言いました。パウロはこのことを22節で産みの苦しみと言っています。
子どもが産まれることは、とても嬉しいことです。けれども、子どもを産むときに、陣痛が起こります。出産が近づけば近づくほど、陣痛の間隔は短くなり、さらに痛みが増します。出産直前に、その痛みは頂点に達しますが、子どもが産まれたのを見て、そのすべての痛みを忘れさせるほどの喜びに包まれます。
この被造物全体、すなわち天も地も、私たちとともにうめき、苦しんでいるのですが、それは子供が生まれるのと同じように大きな喜びが与えられるための産みの苦しみだからです。

6. 目に見えない望み
次いで23-25節では「御霊の初穂」をいただいている私たち自身も、心の中で呻きながら子にしていただくことを待ち望んでいると表現されています。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、御霊を受け、新たに生まれたのです。
けれども、それはあくまでも初穂なのです。

というのは、私たちのからだはまだ贖われておらず、アダムから引き継いだ罪の性質を引きずりながら生きているからです。
私たちが苦しむのは、何よりも、罪の性質を持っているからです。私たちは心では良いことを行いたいと願っているのに、からだに罪の性質があり、自分の願うようにできないのです。だから、私たちもうめいていて、このからだが変えられるのを待ち望んでいるのです。

7. 神様の助け
今の私たちは、苦しみの中で待ち望み、うめいているようなものです。そのうめきの中に入ってきてくださり、私たちを助けてくださる方がいます。26-27節にありますように、御霊なる神です。

パウロは、「同じようにして」と言っていますが、これは、私たちが、心の中でうめいているときに、御霊も私たちのうちでうめいてくださる、と言うことです。私たちは弱く、小さな者であり、どのように祈ったらよいかさえわからないような存在です。しかし、そのような私たちのために、神様ご自身が「言いようもない深いうめき」によって、とりなしてくださると言うのです。

私たちのうちに住んでおられる御霊が、私たちのために祈って下さるとき、その祈りは、父なる神のみこころに沿ったものとなっています。
というのは、御霊は神ご自身ですので、父なる神のみこころをすべて知っておられるからです。

8. 神の計画
28節からを見ていきますと、神様が私たちのためにしてくださるのは、すべてのことを働かせて益としてくださると書かれています。私たちの良い行いや、一部のことだけを働かせて益としてくださるのではなく、すべてのことを働かせて益としてくださると書かれています。

もちろん、すべてのことが必ずしも、神によって起こされたことではありません。
聖書にはヤコブの子ヨセフの話が出てくると思いますが、ヨセフは兄弟たちの妬みによりエジプトに行くことになるのですが、神はそれを用いて、飢饉になった際にヤコブの家族全員を救い出してくださいました。

私たちが逆境に面しているときにも、主は、すべてのものの上におられる神です。私たちが苦しんでいるその逆境をも用いられ、益としてくださるというのです。

ここで、「すべてのことを益に変えてくださる」と言いましたが、それは、御子と同じ姿に私たちが変えられるとい意味です。私たちがイエスさまの姿にますます似てくるように、神は、すべてのことを益として働かせてくださいます。ですから、私たちがお金持ちになるとか、
出世するとか、そういった意味ではありません。

また、それだけでなく「召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と書かれています。
注意深く見ていただきたいのは、神が「栄光をお与えになりました。」と、過去形で書かれていることです。私たちは、いまだ、罪の性質を
引きずっているような弱い者なのですが、イエス・キリストを信じる私たちには、すでに栄光があたえられているのです。


9. 私たちを神から引き離すのは
31-39節で結論に入ります。パウロは、神と私たちを引き離すものが何一つないことを述べ始めます。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。「だれも私たちに敵対できない。」のです。すべての創造主であり、全能者である神が味方であれば、どのような被造物も私たちに敵対することはできない、ということです。
もちろん、悪魔であったり、この世であったり、人々が私たちに対峙することはあるでしょう。しかし、神が味方してくださっているので、だれも私たちに打ち勝つことはできません。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか?もちろん、「私たちにすべてのものを恵んでくださる」ということです。神は私たちのために、ご自分のひとり子でさえ惜しまずに死に渡されました。ならば、私たちに必要なものをお与えにならないことは、決してないのです。

それでは、私たちをキリストから引き離すのは何でしょうか?患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣でしょうか?パウロはこれら全てのことの中にあっても、私たちを愛してくださった方、すなわちキリストによって圧倒的な勝者となるとかかれています。

私たちが、苦しまないことによって勝利を受けるのではありません。むしろ、自分自身の十字架を背負って従うような苦しみを受けます。
しかし、どのような苦しみであっても、私たちに栄光御与えになるという神様の計画を妨げるものではありません。これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者なのです。

パウロは、死も、いのちも、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、私たちをイエスキリストにある神の愛から私たちを引き離すことができないと述べています。そしてそれを確信していると書かれています。

私たちは、小さく、弱い者です。苦しみの時には、目の前のことでいっぱいになってしまい、神様の存在が小さく感じられてしまうようなものです。
私たちは苦しむとき、特に弱いと感じるときに神様に助けを求めます。また、苦しむときには、御霊がうめいてとりなしてくださいます。
私たちが苦しい時に、呻きをもって神様にとりなしていてくださるのです。また、すべてのことを益としてくださいます。

私たちはキリストがすでに苦しんで私たちの罪の代価を支払ってくださったこと、代価を払って買い取られたものです。私たちの苦しみも神様が助けてくださり、益となるように計画してくださっています。

死も、いのちも、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、私たちをイエスキリストにある神の愛から私たちを引き離すことができないという確信を感じられるように、神様を見上げて歩んでいきましょう。

神様と交わりを持つことは、可能である

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:クリス・リズデン

御言葉:第 1 ヨハネ 1:5 – 2:2

トピック:人生

アウトライン

  1. イントロダクション
  2. 神様は光です。(5 節)
    A. 光は純粋さのシンボルです。  
    B. 光は暗闇の中にあるものを、あらわに 照らし出します。
  3. 人間の心の状態
  4. どうすれば、私たちが神様と交わりを持つことが可能になるでしょう?
English Version

Outline

  1. Introduction
  2. God is light (Verse 5) 
    A. Light is a symbol of purity.
    B. Light reveals what is in the darkness.
  3. The condition of the hearts of mankind 
  4. How is it possible for us to have fellowship with God?

Fellowship with God is Possible – 1 John 1:5-2:2

Today we will continue our message series in 1 John.  Last time, we looked at John’s purpose for writing this letter.  He wrote 1 John to tell us how we can have fellowship with God and other believers.  John also wrote this letter so that our joy would be complete.  Last time, we also considered two great truths about the Lord Jesus Christ.  He is both fully human and fully God.  Both these truths are essential for our belief as Christians, and they are essential for our salvation.

Today we will further consider John’s first purpose in writing this letter – Fellowship with God.  How is it possible for us to have fellowship with God?  Today we will look at this key question.  Let’s read 1 John 1:5-2:2.  We will focus, primarily, on 1:5.

Have you ever wondered what God is like?  God’s creation and his Word reveals much about his character.  1 John 1:5 gives us an important description of God.  It says that God is light.  In the gospel of John and in the book of Revelation, the Apostle John often refers to God as light.  What do we know about light?  Light is often a symbol for purity.  That is certainly the case with God.  

In America, there is a famous advertisement for Ivory Soap.  The advertisement claims that Ivory Soap is 99 44/100 percent pure.  I don’t know how the company calculates this percentage.  Perhaps, it’s just marketing.  I John 1:5 tells us that God is 100 percent pure.  He is light, and there is no darkness in him.  God is completely good.  He is completely righteous.  He is completely holy.

Another thing that we know about light is that it reveals what is in the darkness.  Sometimes I will vacuum the floors at home – Especially before people come to our house!  One of the hallways in our house in quite dark, so it can be difficult to see dust on the floor.  However, when I turn on the light, it shows clearly where I need to clean.  Light reveals uncleanness.

This passage in 1 John says that we can have fellowship with God.  This is marvelous!  But how can it be possible?  In the last message in 1 John, I mentioned the meaning of fellowship.  The word fellowship means, to have something in common with another person.  How can we, as sinful human beings, have fellowship with a completely righteous God?  That is mankind’s fundamental problem.  We are separated from our Creator (God) because of our sin.  And there is nothing that we can do to create a bridge between us and God.  Perhaps, we need to define, what is sin?  In Japanese, one of the meanings of “tsumi” is crime.  Committing crimes could certainly be part of sinful behavior, but the meaning of sin is much broader than this.  Romans 3:23 tells us that “all have sinned and fallen short of the glory of God.  God’s standard of righteousness is perfection.  We, as human beings, can never reach this standard on our own.

If you look at the earliest chapters of the Bible, you can see how the first human beings disobeyed God’s command.  In the Garden of Eden, God gave Adam one simple command.  Do not eat from the Tree of the Knowledge of Good and Evil.  Adam and his wife, Eve, could eat from the other trees in the garden.  Only one tree was forbidden.  What happened?  Satan came and tempted Eve.  Then Adam and Eve disobeyed God by eating the forbidden fruit.  At that time, sin entered God’s creation.  We see the effects of sin all around us.  The world is incredibly beautiful in so many ways.  But we see brokenness as well.  There are earthquakes and erupting volcanoes.  There are typhoons and tsunamis.  There is disease and death.  Now we are experiencing a global pandemic.  God’s original creation was not like this.  It was perfect.  But now that creation is broken because of sin.

The effects of sin can be most clearly seen in the human heart.  Since we are all descendants of Adam and Eve, we inherit their sin nature.  We are not just sinful because of our behavior.  We are sinners because we have a sinful nature.  You do not have to teach children how to sin.  They do it naturally.  Our own hearts are dirty because of sin.  Romans 6:23 says, “For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life through Christ Jesus our Lord.”  

In the Old Testament, God gave his people, the Israelites, laws to follow.  Throughout the Old Testament, the Israelites failed to keep God’s law.  In reality, no human being can perfectly keep God’s law.  The most important purpose of the law is to reveal that mankind cannot keep the law.  That is why we need a savior.  When the Israelites disobeyed God’s law, they would bring a sacrifice to the temple.  Oftentimes, this sacrifice was a lamb.  The blood of the lamb was shed, and the person’s sin would be covered.  Hebrews 9:22 says, “Without the shedding of blood there is no remission of sin.”  In the Old Testament, when the blood of animals was shed to cover the sins of the people, it was a temporary sacrifice.  The sacrifice only covered sins, it did not remove them completely.  The priests had to continuously offer sacrifices for the people.  God’s people were looking forward to a permanent sacrifice for sin.

Jesus came to earth to be that permanent, one-time sacrifice for the sins of the world.  In John 1:29-34, we read about how Jesus was baptized by John the Baptist.  When John saw Jesus coming to him, he said, “Behold the Lamb of God, who takes away the sin of the world.”  On the cross, Jesus was the perfect sacrifice for our sins.  He makes it possible for us to be forgiven and clean before God.  We inherited our sin nature from Adam.  From Jesus we can receive a new nature.  This new, righteous nature makes it possible for us to have fellowship with a perfectly righteous God.

So just like the light reveals uncleanness in a dark room, God’s light reveals the sin and uncleanness in our lives.  But God doesn’t leave us in the dark.    Through his Son, Jesus, God has provided a way for us to be made clean.  God has provided a way for us to have fellowship with him.

Today, we looked at the question, “How is it possible for us to have fellowship with God?”  Next time, we look at the question, “How can we maintain our fellowship with God?”             

豊かな命キリスト教会のオンラインでの礼拝

豊かな命キリスト教会の皆様、こんにちは。(ENGLISH BELOW)

最近のコロナウィルスの感染拡大の状況を受けて、私たちはウィルスの感染拡大を防ぐために、日曜日の礼拝をオンラインですることに決定いたしました。

こちらのリンクをクリックすることで、礼拝に参加できます。
https://join.skype.com/WmwkhoKGNNeZ, 祈りの時、賛美、そして聖書のメッセージを予定しています。できるだけたくさんの人が礼拝に参加できることを、願っています。

今度の日曜日、はじめてのオンラインでの礼拝では、リズデン クリスChrisがメッセージをします。そしてワーシップチームが、賛美をリードします。

イエス様を賛美するために、オンラインの礼拝にどうぞ私たちと一緒に参加してください。

時間: 4月19日日曜日 10:30AM
ロケーション(オンラインのアドレス): Skype Meet Now  https://join.skype.com/WmwkhoKGNNeZ


Hello Abundant Life Christ Church family, 

Due to the recent spread of COVID-19 we have decided to take extra steps to prevent the spread of the virus by moving our Sunday worship service online.
You can join the worship service by clicking the following link https://join.skype.com/WmwkhoKGNNeZ, we have a time of prayer, worship, and bible message planned and would love to see as many as possible join. 

This Sunday Chris Risden will be teaching and the worship team will lead us in our first online worship time. Please join us online to worship Jesus. 

TIME: 10:30AM on Sunday April 19th
LOCATION: Skype Meet Now https://join.skype.com/WmwkhoKGNNeZ

人生の「なぜ?」

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:靖博城

御言葉:ヨハネの福音書9:1〜7

トピック:人生

ただ神の力が現されるため
1さて、道を歩いていた時のこと、イエスは生まれつきの盲人をごらんになりました。 2そこで、弟子たちが尋ねました。「先生。どうしてこの人は、生まれつき目が見えないのですか。本人が罪を犯したからですか。それとも両親ですか。」 3「いや、そのどちらでもありません。ただ神の力が現されるためです。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方に命じられた仕事を、急いでやり遂げなければなりません。もうすぐ夜が来ます。そうしたら、もう仕事はできないのですから。 5しかし、まだこの世にわたしがいる間は、わたしが光となります。」 6こう言われると、イエスは地面につばをして泥を作り、それを盲人の目に塗って、 7言われました。「さあ、シロアムの池に行って洗い落としなさい」〔「シロアム」とは、「遣わされた者」の意味〕。イエスが言われたとおりにすると、どうでしょう。彼は見えるようになって戻って来たではありませんか。

ヨハネの福音書9:1〜7

2018クリスマス案内

2018年12月23日(日)

クリスマス礼拝 10:30 ~ 12:00

祝会

クリスマスランチ&祝会 12:30 ~ 14:00

お問い合わせ

☎0263-28-9836

アクセス

豊かな命キリスト教会

松本市出川2−22−14

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(出川郵便局のななめ向かい)
<参加自由・入場無料>

カルビン&パトリシア ジャンカー宣教師 記念会のご案内

カルビン&パトリシア ジャンカー宣教師 記念会のご案内

私の両親、カルビン&パトリシア ジャンカーが生前お世話になり、心から感謝申し上げます。
2015年12月5日、母パトリシア・ジャンカー 召天。 そして2017年4月25日、父カルビン・ジャンカーが召天しました。
二人は戦後間もなく、アメリカの教会から宣教師として派遣され、47年間日本で働き、松本、安曇野、大町で6つの教会をスタート
しました。

活動は教会の中だけにとどまらず、英会話、少年院(有明高原寮)、 松本少年刑務所、教育関係、書店など多方面に渡りました。
これらの働きを通して、多くの方々に出会い、また良いものをお分かちすることができたかと思っております。
2001年8月には、宣教師を引退、アメリカに帰国しました。

二人は日本で骨を埋めたいと願っておりました。私たち家族の希望もあり、二人の記念会を日本で執り行います。
両親と出会い、思い出のある方たちにお集まりいただき、ご一緒に偲ぶ時を持てたら嬉しく思います。
どうぞお気軽に、平服で、お出かけください。

親族代表:ジョナサン・ジャンカー

日時:2017年 5月20日(土) 14:00~15:30(記念会) 15:40~17:00(軽食と親睦の時)場所:JA 虹のホール芳川 2階

〒399-0038 松本市小屋南 1丁目15番20号 0263-85-0022