私たちを神から引き離すのは

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:西尾信哉

御言葉:ローマ人への手紙8:15-39

トピック:愛

「私たちを神から引き離すのは」 ローマ人への手紙8:15-39

アウトライン

  1. はじめに
  2. 神の子とされている私たち
  3. 今の時の苦しみは
  4. 被造物のうめき
  5. ともに産みの苦しみをしている
  6. 目に見えない望み
  7. 神様の助け
  8. 神の計画
  9. 私たちを神から引き離すのは


1. はじめに
おはようございます。さて、新型コロナウイルスによる肺炎の流行により、本日はこのようにネットを用いて礼拝メッセージを行うことになりました。
まだ身近にはそれほど罹患された方はそれほどいないかと存じますが、世界的には罹患者が増え続けています。
また、私たちの身の回りでも、学校が一斉休校になるなど大きな社会的影響も出始めています。

昨年は長野県でも洪水で多くの方が被災しましたが、地震や洪水などの自然災害の時や、今回のような厳しい状況の時に、「なぜこのように厳しい目にあうのだろうか?こんなひどいことが起こるなんて、神様なんておられないのではないか?」と感じてしまうことはないでしょうか?
神様の存在が遠く感じられてしまう、そんな気持ちになってしまう経験をお持ちの方も大勢いらっしゃると思います。

今日はローマ8章から「私たちをキリストの愛から引き離すのは」について見ていきたいと思います。

2. 神の子とされている私たち
はじめの15節から17節は前の章からの続きで、御霊について書かれています。私たちイエス・キリストを信じているクリスチャンは、私たちが神の子とされていることを知っています。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼ぶことができるのです。

また、私たちは神の子どもであるので、神の相続人であること、キリストとの共同相続人であることも明確に書かれています。
そうです。私たちは神の子どもとされているのです。
しかしながら、先ほど述べたように、自然災害などの厳しい状況があると、「神様なぜ?」とつぶやいてしまいます。             

3. 今の時の苦しみは
18-25節には今の時の苦しみについて触れられています。
私たちは弱い存在です。将来神様の子どもとされるという栄光が約束されていても、今現在が苦しい状況にあると、つい目の前の事柄で頭がいっぱいになってしまい、神様が約束してくださっている栄光のことを忘れてしまいます。

しかし、思い出して欲しいのです。私たちの罪の身代わりとしてイエス様がどのような苦難を通られたか。
イエス様でさえ栄光の座に着かれるまえに、十字架の死という苦しみを受けられたのです。

ここで大切なのは、「取るに足りない」という言葉です。私たちは今の目の前にある苦しみで、頭がいっぱいになってしまうような弱いものですが、将来に啓示される栄光に比べれば、取るに足りないものに
すぎない、とパウロは言っています。

ここを読むとパウロの苦労がどの程度のものだったか気になりませんか?今の苦労は取るに足りないものと言うことができる程度の苦労だったのでしょうか?

パウロの苦労は、第二コリント11章23-28節に書かれています。どうですか?とても軽いとは言えませんよね。
石打やむち打ちは死と隣り合わせなのです。けれども、これらは軽い患難と言うのです。なぜでしょうか?
それは、パウロが、将来の栄光の重さと、今の苦しみを比べ、将来の栄光のほうが重要であると固く信じているからです。神様が、私たちが受ける苦しみに報いてありあまる栄光を、私たちのうちに用意しくださっているのです。


4. 被造物のうめき
先ほど述べたように、今の苦しみは、理由のある苦しみであり将来約束された望みがある苦しみなのです。
続いてパウロは、19節から22節で、待ち望むことについて説明しています。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいると言っています。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。と書かれています。
「被造物が虚無に服した」とありますが、どういう意味でしょうか?

これはアダムが罪を犯したときのことに起こりました。神様はこの天地を作られた時、全て良いとおっしゃられました。
悪いところが何もありませんでした。しかし、アダムが罪を犯したためが呪われただけではなく、自然界も呪われてしまったのです。(創世記3章17-19)

神様が初めにつくられた地上は呪われていませんでした。もともと、天地をすべて良く造られました。しかし、アダムが罪を犯したことで呪われてしまったのです。
けれども、望みがあります。人間が罪を犯して被造物が全て呪われてしまったように、人間が贖われると、土地も贖われるからです。


5. ともに産みの苦しみをしている
私たちが受けている苦しみは、望みがある苦しみだと言いました。パウロはこのことを22節で産みの苦しみと言っています。
子どもが産まれることは、とても嬉しいことです。けれども、子どもを産むときに、陣痛が起こります。出産が近づけば近づくほど、陣痛の間隔は短くなり、さらに痛みが増します。出産直前に、その痛みは頂点に達しますが、子どもが産まれたのを見て、そのすべての痛みを忘れさせるほどの喜びに包まれます。
この被造物全体、すなわち天も地も、私たちとともにうめき、苦しんでいるのですが、それは子供が生まれるのと同じように大きな喜びが与えられるための産みの苦しみだからです。

6. 目に見えない望み
次いで23-25節では「御霊の初穂」をいただいている私たち自身も、心の中で呻きながら子にしていただくことを待ち望んでいると表現されています。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、御霊を受け、新たに生まれたのです。
けれども、それはあくまでも初穂なのです。

というのは、私たちのからだはまだ贖われておらず、アダムから引き継いだ罪の性質を引きずりながら生きているからです。
私たちが苦しむのは、何よりも、罪の性質を持っているからです。私たちは心では良いことを行いたいと願っているのに、からだに罪の性質があり、自分の願うようにできないのです。だから、私たちもうめいていて、このからだが変えられるのを待ち望んでいるのです。

7. 神様の助け
今の私たちは、苦しみの中で待ち望み、うめいているようなものです。そのうめきの中に入ってきてくださり、私たちを助けてくださる方がいます。26-27節にありますように、御霊なる神です。

パウロは、「同じようにして」と言っていますが、これは、私たちが、心の中でうめいているときに、御霊も私たちのうちでうめいてくださる、と言うことです。私たちは弱く、小さな者であり、どのように祈ったらよいかさえわからないような存在です。しかし、そのような私たちのために、神様ご自身が「言いようもない深いうめき」によって、とりなしてくださると言うのです。

私たちのうちに住んでおられる御霊が、私たちのために祈って下さるとき、その祈りは、父なる神のみこころに沿ったものとなっています。
というのは、御霊は神ご自身ですので、父なる神のみこころをすべて知っておられるからです。

8. 神の計画
28節からを見ていきますと、神様が私たちのためにしてくださるのは、すべてのことを働かせて益としてくださると書かれています。私たちの良い行いや、一部のことだけを働かせて益としてくださるのではなく、すべてのことを働かせて益としてくださると書かれています。

もちろん、すべてのことが必ずしも、神によって起こされたことではありません。
聖書にはヤコブの子ヨセフの話が出てくると思いますが、ヨセフは兄弟たちの妬みによりエジプトに行くことになるのですが、神はそれを用いて、飢饉になった際にヤコブの家族全員を救い出してくださいました。

私たちが逆境に面しているときにも、主は、すべてのものの上におられる神です。私たちが苦しんでいるその逆境をも用いられ、益としてくださるというのです。

ここで、「すべてのことを益に変えてくださる」と言いましたが、それは、御子と同じ姿に私たちが変えられるとい意味です。私たちがイエスさまの姿にますます似てくるように、神は、すべてのことを益として働かせてくださいます。ですから、私たちがお金持ちになるとか、
出世するとか、そういった意味ではありません。

また、それだけでなく「召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と書かれています。
注意深く見ていただきたいのは、神が「栄光をお与えになりました。」と、過去形で書かれていることです。私たちは、いまだ、罪の性質を
引きずっているような弱い者なのですが、イエス・キリストを信じる私たちには、すでに栄光があたえられているのです。


9. 私たちを神から引き離すのは
31-39節で結論に入ります。パウロは、神と私たちを引き離すものが何一つないことを述べ始めます。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。「だれも私たちに敵対できない。」のです。すべての創造主であり、全能者である神が味方であれば、どのような被造物も私たちに敵対することはできない、ということです。
もちろん、悪魔であったり、この世であったり、人々が私たちに対峙することはあるでしょう。しかし、神が味方してくださっているので、だれも私たちに打ち勝つことはできません。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか?もちろん、「私たちにすべてのものを恵んでくださる」ということです。神は私たちのために、ご自分のひとり子でさえ惜しまずに死に渡されました。ならば、私たちに必要なものをお与えにならないことは、決してないのです。

それでは、私たちをキリストから引き離すのは何でしょうか?患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣でしょうか?パウロはこれら全てのことの中にあっても、私たちを愛してくださった方、すなわちキリストによって圧倒的な勝者となるとかかれています。

私たちが、苦しまないことによって勝利を受けるのではありません。むしろ、自分自身の十字架を背負って従うような苦しみを受けます。
しかし、どのような苦しみであっても、私たちに栄光御与えになるという神様の計画を妨げるものではありません。これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者なのです。

パウロは、死も、いのちも、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、私たちをイエスキリストにある神の愛から私たちを引き離すことができないと述べています。そしてそれを確信していると書かれています。

私たちは、小さく、弱い者です。苦しみの時には、目の前のことでいっぱいになってしまい、神様の存在が小さく感じられてしまうようなものです。
私たちは苦しむとき、特に弱いと感じるときに神様に助けを求めます。また、苦しむときには、御霊がうめいてとりなしてくださいます。
私たちが苦しい時に、呻きをもって神様にとりなしていてくださるのです。また、すべてのことを益としてくださいます。

私たちはキリストがすでに苦しんで私たちの罪の代価を支払ってくださったこと、代価を払って買い取られたものです。私たちの苦しみも神様が助けてくださり、益となるように計画してくださっています。

死も、いのちも、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、私たちをイエスキリストにある神の愛から私たちを引き離すことができないという確信を感じられるように、神様を見上げて歩んでいきましょう。

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