イエスという方の「業」と「心」 / The ‘works’ and ‘heart’ of Jesus

 松本豊かな命キリスト教会

作成者:江渕 篤史

御言葉:マタイの福音書 9章35-36節

トピック:

Fearfulness of Jesus' Resurrection // イエスの復活の恐れさ 松本 豊かな命キリスト教会 // Matsumoto Abundant Life Christ Church

メッセージ内容

メッセンジャー:江渕さん
タイトル:「イエスという方の「業」と「心」」
聖書箇所:マタイの福音書 9章35-36節

Message Info

Speaker: Mr. Ebuchi
Title: “The ‘works’ and ‘heart’ of Jesus”
Bible Passage: Matthew 9:35-36

メッセージ原稿

『イエスという方の「業」と「心」』

35:それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる 病気、あらゆるわずらいを癒やされた。36:また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いの いない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。(マタイ9:35-36)
I. イエスという方の「心」(35節) 35:それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる
病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
すべての町や村を巡った 当時のイエスラエルは、四国と同じくらいの面積であったと考えられます。「お遍路さん」と
は、弘法大師「空海」ゆかりの四国88ヶ所の仏教寺院を巡礼する人々のことです。「お遍路さ ん」の「遍」という漢字は、「あちこちに行きわたる」という意味を持ちます。参拝者は特定の巡 礼ルートに沿って寺院を巡ります。その道中でお経を唱え、お参りすることで、心を浄化し悟りへ の道を歩むわけです。私は幼少期に家の前の国道を、白い衣を着て、傘状の帽子を被り、太めの角 角した杖をついて歩く大人を見て、不思議に思ったものでした。
イエス様と十二弟子たちの一行は、3年間をかけてイスラエルのすべての町々と村々を巡りまし た。「お遍路さん」が心の浄化や悟りのために人間が神に近づこうとする行為であるとするなら ば、イエスの一行による遍路は、神自らが人に近づいて下さる行為です。これがキリスト教と他の 宗教の決定的な違いでしょう。神を求める心と行為は、人として尊く、高潔なものだと私は思いま す。しかし、人が自分の悟りや努力では神を見出すことは不可能です。しかし、イエスが「すべて の町と村を巡られた」という短い言葉の中には、神が私たち一人ひとりの心を探し求め、出会おう としているその熱意と決意を感じずにはいられません。神は今日皆さん一人ひとりに自ら近づいて 来て下さっています。
ではイエスは町々、村々を巡り、何をしたのでしょうか?3つのことが書かれています。
(1) 会堂で教えた まずは1つ目、それは「会堂で教えた」です。当時イスラエルの各地にはユダヤ人の会堂が建て
られていました。毎週土曜の安息日には、ユダヤ人たちは会堂に集います。ラビと呼ばれる専門教 育を受けた宗教指導者、教師たちによって、旧約聖書を用いた宗教教育が行われました。当時のラ ビの教えというのは、かつての著名なラビたちが旧約聖書の律法をどう解釈したのかを伝えていま した。それはイエスが「昔の人たちの言い伝え」「人間の言い伝え」と言われるものです。
例えば、昔の人たちの言い伝えの一つには、市場から帰って来たら「食事にあたって手をきよめ 洗わなければならない」という決まりがありました。マルコ7:5-8には、イエスの弟子のある者 たちがそれをしていなかったことを見た宗教指導者がイエスに質問する場面が描かれています。
5:パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たち の言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。…」6:イエスは彼らに言われた。 「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この⺠は口先でわた しを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7:彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人 間の命令を、教えとして教えるのだから。』8:あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝え を堅く守っているのです。」
事実、代々に渡って様々な細かな規定や命令が作り出され、ラビたちはそれを教え込み、人々を 縛り付けてしまいました。
私たち日本人は周りとの和を尊びます。人々と調和を保つことに関しては、世界でもずば抜けて 突出した⺠族です。しかし、無意識の内に多くの決まりやマナーなどを大切にし、人の心を重んじ 過ぎるがゆえに、それ以上に大切な神の心を軽んじてしまうことが起こり得ます。つまり「神の戒 めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守る」という当時のイスラエル人と同じ状況に陥っていると言 っても過言ではないかもしれません。
イエスはある意味人間の教えによって侵食されてしまった律法の本来の心と意図を回復するため に、会堂で教えたのです。私たちは御言葉の真理に、食品に入れられた添加物のように人間的な不 純物を加えるべきではありません。なぜなら、御言葉そのものにこそ、人の魂と霊を生き返らせる 力があるからです。
同時にイエスは、生きる希望を失いかけていた人々に聖書から希望の知らせを伝えました。 イエスが町々や村々を巡ってしたことの2つ目、それは「御国の福音を宣べ伝えた」ことです。
(2) 御国の福音を宣べ伝えた 「御国の福音」とは何でしょうか?「御国」とは王国、つまり救い主が治める王国を意味しま
す。したがって、御国の福音とは「天の御国が近づいた」という良き知らせのことです。 では、イスラエルの⺠はイエスのメッセージを聞いて、信じることができたでしょうか?
当時のイスラエル人たちもイエスがただ言葉でメッセージを伝えても、「ではあなたが救い主であ ることを信じるために、どんな奇跡を私たちに見せてくれますか?」と言うわけです。イスラエル の⺠というのは昔から非常に疑い深く、奇跡を見なければ信じない頑なな⺠です。
私たちもある意味、そうではないでしょうか?イエスは神であり救い主であると言われても「で はそれを証明して欲しい、見せて欲しい。そうすれば信じるから…」と心の中で思うわけです。私 たちは今まで誰かを純粋に信じた時期がありました。その人の言うことに間違いはないと思ってつ いて行きました。しかし、ある日、その信頼していた人に裏切られ、傷つき、失望し、徐々に簡単 には人の言葉を信じることができなくなるのではないでしょうか?本当にその人の言っていること が真実なのかを時間をかけて確認しようとするわけです。
イエスさまはそんな傷ついた私たち人間の心を良くご存知です。ですから彼はヨハネ10:37〜38 でこのように言います。

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しか し、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。
イエスはご自分が行う業によって証明をする必要がありました。そこでイエスが町々村々で行っ た3つ目のことは、「あらゆる病気とわずらいを癒す」という業です。
(3) あらゆる病気、わずらいを癒した 旧約聖書には救い主が将来現れたときに何が起こるかが預言されています。【イザヤ35:2〜6】
盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授け られるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめく膝をしっかり させよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報 いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、目の見えない者の目は開かれ、 耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけな い者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
イエスが救い主であるバプテスマのヨハネが投獄され、その苦しみの中で彼のイエスに対する確 信が揺るぎかけたとき、彼は使いをイエスの元に送り、確認しようとしました。その時のイエスの 返答がマタイ11:4−6に書かれています。
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨ ハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された 者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が 伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
【イエスの業】 ・目の見えない者たち【マタイ9:27-30】 ・足の不自由な者たち【マタイ9:1-7】 ・ツァラアト【マタイ8:2-3】 ・耳の聞こえない者たち【マルコ7:32-35】 ・死人【マタイ9:18-25】 ・貧しい者たち【マタイ4:23】
イエスが救い主であると信じために、イスラエル人にとって最も重要なこと、それはただ癒しの奇 跡を見ること以上に、旧約聖書の預言が実際にイエスによって成就するということにありました。 イエスは旧約聖書で救い主が現れる時に、起こるであろう癒しの奇跡のすべてを行われました。そ れは人々がイエスの業によって彼を信じるためです。

II. イエスという方の「心」(36節)
36: また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒
れていたからである。 36節では3つのことを見たいと思います。
(1) 群衆を見た これは聖書の学びのゴスペル・ベンチャーと呼ばれる弟子訓練教材シリーズの最後5冊目で、私
の知り合いのクリスチャンが製作したものです。教材制作にあたって、私たち夫婦の写真を表紙に したいので、渋谷スクランブル交差点で撮影させて欲しいとの連絡がありました。
渋谷のスクランブル交差点は、世界で最も有名な交差点として知られています。一回に最大3000 人以上が横断するそうです。撮影日は平日の昼間、しかもあいにくの雨でしたので、人数も3000人 もおらず、なんとか無事に撮影することができました。ただ、それでも歩行者用信号が「⻘」の 120秒の間に、傘をさして往来する人々の間を掻き分け、シャッターチャンスを見つけるのには結 構苦労しました。このとき、私にとっては交差点にいた群衆はいわゆる「人ごみ」でしかありませ んでした。
しかし、イエスさまだったらどうだろう?と思います。イエスさまなら、交差点の人々を「人ご み」として見ることをしなかったでしょうね。彼ならそこに行き来する一人一人の心、彼らの背負 ってきた人生、悲しみ、痛みのすべてを見られたのではないでしょうか?イエスさまは群衆を見 て、深くあわれまれたのです。なぜでしょうか?
(2) 彼らは弱り果てて倒れていた(羊飼いのいない羊の群れのように) なぜなら、彼らが弱り果てて倒れていたからです。その姿は「羊飼いのいない羊」のようでし
た。羊は決して強い動物ではなく、むしろ弱さの象徴と言えます。とくに家畜として飼われている 羊は群れをなしていますが、これを「導く者」がいないと、自分たちで食べるものさえ探せませ ん。狼や羊泥棒からも守ってやらなければ、羊たちは、生きていくことができません。
旧約聖書には、当時のイスラエルの人々が「羊の群れ」にたとえられている個所がたくさんあ り、彼らを導く「羊飼い」は本来ユダヤの指導者に委ねられた役割でした。しかし、彼らは律法を 守ることを厳しく押しつけ、私利私欲に走り、隠れて不正を行い続けていたのです。イスラエルの 人々は羊飼いを失った悲惨な状況にあったわけです。
(3) 深くあわれまれた(マタイ5回/マルコ4回/ルカ3回 計12回使用) イエスさまは、このような群衆を見て「深く憐れまれました」。ここでの「深く憐れんで」の言
語の名詞には、「内臓(はらわた)」という意味があります。日本語にも「はらわたが煮えくりか えるとか」、「断腸の思い」というように、心の奥底から突き上げてくる強い感情を表す際に用い られます。つまり、「はらわた」は私たちの最も深く、激しい衝動が納められている場所であり、 情熱的愛と激しい憎しみの両方が生まれる中心部であると言えます。

イエスさまは群衆の弱り果てて倒れている姿を見たとき、はらわたから込み上げてくる激しい、 情熱的憐れみによって突き動かされました。
カトリック司祭のヘンリー・ナーウェンという人は「今日のパン、明日の糧(P179)」という中 でイエスの深い憐れみについてこのように言っています。
「祝福された神の御子、イエスは憐れみ深い方です。憐れみ深いことは、かわいそうに思うことと は違います。かわいそうと思う気持ちは暗に隔たりを含んでおり、見下すことでもあります。物乞 いの人がお金を求め、あなたがかわいそうに思って何かをあげても、それは憐れみ深さとは違いま す。憐れみ深さは共に苦しむ心から生まれます。憐れみ深さは相手と等しいものになろうとするこ とから生まれます。イエスは私たちを見下そうとはされませんでした。イエスは私たちの一人とな り、私たちと深く思いを共にしようとしました。」
今回メッセージを準備しながら、ある出来事を思い起こしました。約15年前、妻と私は仙台にあ る教会での奉仕のため、東京から夜行バスに乗り、翌朝仙台駅に到着しました。私たちはマックに 入り、朝食を取ることにしました。その時、隣に20代の女性が座っており、一人でずっと独り言を 言っていたのです。私は最初「ちょっと変わった人だなあ」くらいにしか思っていなかったのです が、彼女の言動が普通ではないと気づきました。私は勇気を出して、声をかけ、彼女と会話を始め ました。結局4時間ほど彼女の話に耳を傾けることとなりました。彼女が家族や友人からどれほど 傷つけられて、家出をして仙台にまでやって来たのかなどを分かち合ってくれました。私が主の導 きの中でイエスさまについて分かち合い始めると、彼女が突然「自分はイエスのことを知ってい る」と言い始め、段々とイエスを呪うような言葉を語り始めたのでした。妻は隣でずっと彼女のた めに祈り続けていました。
私たちは彼女が悪霊に憑かれている可能性があると思い、心の中で祈りながら彼女と話を続けま した。すると、彼女が突然椅子から崩れ落ちて、気を失ったかのように倒れてしまいました。マッ クはすでに多くのお客さんでいっぱいでした。しかし、その時私たちの心には「なんとかして彼女 を助けてあげたい」という思いしかありませんでした。ひと目も憚ることなく、妻が倒れてしまっ た彼女を抱きしめて、私は必死で彼女のために声を出して祈りました。悪霊追い出しの祈りをし、 彼女は神に愛されている存在であることを宣言しました。数分間祈ったでしょうか。すると彼女は 目から涙を流して、正気に戻り、全くの別人のように変わりました。振り返ると、なぜ私たちは混 雑したマクドナルドの店舗の中で、そのような大胆なことができたのか分かりません。しかし、一 つだけ言えることは、弱り果てている彼女を助けてあげたい、救いたいという神の憐れみの心が、 私たち夫婦を突き動かしたのだということです。
まとめ:
今朝はイエスというお方の「業」と「心」を見てきました。このイエスさまのイスラエル⺠族に 対する深い憐れみは、イエスさまを行動へと駆り立たせずにはいられませんでした。

イエスは数々の奇跡によって、彼のメシア性を証明するために、群衆を癒したわけではなりませ ん。結果的にそれらの癒しは確かにイエスが救い主であることを証明したことでしょう。しかし、 イエスを癒しへと向かわせた最大の理由、それは彼が群衆を見て抱いた激しい情熱的な愛、腑から 突き動かされるほどの衝動的憐れみだったのです。
イエスさまは今日弱り果てて倒れていた私たち一人ひとりをも深く憐れんでくださいました。そ
して、私たちと同じ苦しみを味わい、私たちの打ちひしがれた状態を体験するために、罪そのもの
となって、十字架でいのちを捨てられたのです。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)