松本豊かな命キリスト教会
メッセージ内容
メッセンジャー:西尾兄
タイトル:「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」
聖書箇所:マタイの福音書11:28-30
28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは081負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11:28-30
Message Info
Speaker: Shinya Nishio
Title: “all who labor and are heavy laden”
Bible Passage: Mat. 11:28-30
メッセージ原稿
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
おはようございます。今朝は、マタイの福音書11章28‐30節からともに見ていきたいと思います。この箇所は、非常に有名な箇所で、多くの日本の教会が、会堂の看板や週報に掲げている聖句ですね。現代は、疲労の時代だとも言われています。ある調査によると現代人の4人に3人が疲労を感じており、特に40代女性は90%が疲労を感じているという結果が出ています。このように世間を見ますと、疲れている人々、重荷を持っている人々が多いということを皆さんも感じておられることでしょう。
当時、バプテスマのヨハネは牢獄に入れられていました。11章の前半を見ますと、ヨハネが弟子たちを通じて、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか?」とお尋ねになりました。イエス様は、ご自分が父なる神から命じられていることを行なわれ、あらゆる病や煩いを癒されていることをヨハネに伝えるように言いました。
そして、イエス様は、バプテスマのヨハネが預言者以上の存在であるにもかかわらず、彼の禁欲的な生活「食べもせず、飲みもしないでいる」と、パリサイ派の者たちが、「悪霊につかれている」と中傷し、結局、彼の言葉を受け入れませんでした。また、イエス様ご自身については、食べたり飲んだりしていると、「大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」と言われてしまうのです。まるで揚げ足取りのような状況で、ヨハネやイエス様を拒絶していたことがわかります。
おまけに、イエス様が力ある働きを行なわれた三つの町が、福音を拒みました。カペナウム、コラジン、ベツサイダです。そこに対して、ソドムよりもひどい裁きが来ることを宣告されました。最も労苦して仕えられたところでも、福音を信じるのではなく拒絶反応を示されたのです。
しかし、イエス様は安らぎを得ていました。それは、父なる神の御手にゆだねていたからです。人が福音を受け入れるか、受け入れないかということは、完全に父なる神が行なわれています。
知識を多く持っているのに拒んでいる人々がいますが、その一方で知識もない人が喜んで受け入れています。父なる神が幼子のようなものたちに、ご自分のことを知らせておられるからです。神がそのようにされないかぎり、人は心を一センチでも開くことはできないのです。人間の努力や能力ではなく、父なる神がそのように決めたのではない限り、神様のことを知ることはないのです。
「子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません」
そこでイエス様は、そこにある安らぎをもって、言われたのが今日の聖句です。
28 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
私たちは、今、何をしなければならないのでしょうか?私たちの毎日の生活は試練や困難の連続であるといえるかもしれません。当時のイスラエルであれば、今のようにガスや水道などもありませんから、肉体的な疲労も多くあったことでしょう。
このように、いろいろな試練や困難、反対がある時に何をしなければならないのか?それはイエス様のところに行くことです。しかし、私たちは、自分でいろいろ考えて、いろいろと行動し、疲れを自分自身の上に積み上げています。自分で勝手に目標を自分に課し、負わなくてよい頸木を、重い頸木を勝手に背負っているのです。なぜなら、父なる神が全てのことをしておられるということを信じ、受け入れていないからです。自分でなんとかすることに重きを置き、自分の人生を自分だけのものにしてしまっているからです。へりくだって、幼子のようになって、神の示されるところに生きる時、そこには安らぎがあります。
イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人」と言われていますが、私たち多くの人が、人生の中での疲れ、試練、困難の中で過ごしています。イエス様が重荷と表現されているように、私たちは多くの責任も抱えています。中には負いきれない程の大きな責任があって、疲れを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
しかし、そもそも、私たちはなぜ、そんな重荷を背負っているのでしょうか?私たちの主が、重荷を負いなさいと言われたのでしょうか?そうではありません。イエスは重荷をわたしに任せなさいと言われているのに、「いやです、自分自身で解決します。」と言っているのです。自分自身の力だけで何とかやりくりして責任を果たそうとしてしまうのです。
まるで、主人が、「もう、これはやらなくて良いよ。」と言っているのに、「いや、これをやりつづけます。」と言ってやり続けてしまうしもべのようなものです。主人が命令したら、「はい、わかりました。」と主人の命令に従うのが良い僕です。しかし私たちは自分の力に固執してしまうような性質があるのです。
主人の命令を聞くためには、絶えずその主人のところに戻らないといけません。ですから、私たちにまず必要なことは、「イエス様のところに行く」ということです。
イエス様は、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われています。私たちは自分自身の力に頼る時、つい無理をしてしまい、疲れてしまいます。特に困難な状況の場合には、休憩も取らずに根を詰めてしまうこともあります。
しかし、思い出していただきたいのは、私たちの父なる神は安息の神でもあるということです。六日働いて、七日目に休まれて、それを聖とされました。その神様が「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われていることを思い出す必要があります。その言葉は頼りにならないでしょうか?いいえ!天も地も、全ての生き物もお造りになったどんなことでもできるお方が「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言っているのです。私たちに必要なのは、その言葉を信じ、従い、イエス様の近くに行き重荷を下ろし、安息を得ることです。
29 「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」
そしてイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って」と言われます。イエス様のところに来たら、今度は、イエス様の頸木を負います。自分が肩には、重荷になってしまっている自分で作り出した頸木がありますが、それは取り外し、イエス様の頸木を負うわけです。
頸木とは、牛などで畑を耕す時に、2頭の牛の頸にかける横木のことです。それまでは、自分の欲望のまま生きていき、それが自分の重荷となり、自分を疲れさせていたのですが、それを下し、イエス様の頸木を背負うのです。これはイエス様が半分背負おってくれるわけですから、今までの自分一人で背負っていたものよりは遥かに軽いのです。なぜでしょうか?
それは、イエス様が「心が柔和でへりくだっているから」です。イエスご自身がこころが柔和でへり下っているから、教えを受ける人々の思いや心に寄り添うことができます。その柔和な姿は、イザヤが預言しました。マタイ12章19‐20節「彼は言い争わず、叫ばず、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。」葦そのものは、とても折れやすいものです。しかも痛んだ葦でさえ折ることもないように教えられました。さらに、くすぶる灯心なのに、それを消すこともせず、御言葉を教えられました。イエス様は教えられている私たちの弱さを思いをご存じであり、それを思いやることのできるお方だからです。
では、イエス様の頸木を負って何をするのでしょうか?イエス様は「わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」と言われました。つまり、イエス様は「来なさい」と言われました。そして「わたしの頸木を負いなさい」と言われました。そして、三つ目に「わたしから学びなさい」と言われています。パリサイ人たちのようなところから学んだら、心が重くなります。それは神の教えではなく、人の教えだからです。しかし、イエスさまから学べば、魂に安らぎが来るのです。
30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
イエス様から頸木を負うことに関して、パリサイ派の教えとの比較、対比があります。「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)」と書かれています。主の戒め、命令は重い頸木なのですが、イエス様の頸木は軽いのです。それはなぜでしょうか?それは、パリサイ人の教えは人間の考え出したきまりだからです。それに対しイエス様のくびきは違います。
私たちは、自分がいかに、自分自身の頸木を負っているか、あるいは自ら望んで背負ってしまっているかを知れません。これをしなければいけない、あれをしなければいけない、という自らの基準や規則を課して、自分自身の上に重荷を乗せているのです。
元来、神の命令は重荷とはなりません。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3)」神との愛の関係がある時に、その命令を守ることは重荷とはならないのです。
私たちは、自分の愛している人(家族であったり仲の良い友人)の言葉の場合には、私たちはやりたいと願います。同じように神との愛の関係がある時、神に言われることを行なうのは、その頸木は負いやすく、荷は軽いのです。私たちが荷が重いと感じているならば、それは神がそうされているのではなく、自分自身がそうさせてしまっていることを吟味すべきでしょう。
私たちが神のほうにもっと目を向けるのであれば、それは幼子でもわかる簡単なものだと書かれているとおり単純なものなのです。しかし、その単純なものを、私たちの罪や自分中心的な考え方で、複雑なものにしているのです。そして、神の掟さえ自己流の解釈を付けて、主の頸木ではなく自分の頸木にしてしまっています。主のところに来てださい。そして頸木をかけるイエス様を思い出し、そうすれば魂の安らぎがきます。


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