召された私たち / Those Who Have Been Called

 松本豊かな命キリスト教会

作成者:城兄

御言葉:ローマ1:1~7

メッセージ内容

メッセンジャー:城兄
タイトル:「召された私たち」
聖書箇所:ローマ1:1~7

ローマ 1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウ ロ、
ローマ 1:2 –この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 ローマ 1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
ローマ 1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示 された方、私たちの主イエス・キリストです。
ローマ 1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のた めにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
ローマ 1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々 です、–このパウロから、
ローマ 1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父な る神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

ローマ1:1~7

Message Info

Speaker: Jyo-san
Title: Those Who Have Been Called
Bible Passage: Rom. 1:1-7

メッセージ原稿

皆様の多くはローマ人への手紙を読んだことがあるでしょう。どのような感想をお持ちでしょ うか? 私は「難しい」「何言っているかわからないところが多い」というのが正直な感想でした。し かしまた、多くの偉大な信仰者に影響を及ぼした書であります。 紀元4世紀の神学者アウグスティヌスは未だその肉欲を克服できずにいた時、隣の家で歌って いる子どもたちの「とって読め」という声(遊び歌の一種だったようです)に導かれ、聖書を手 に取り開いたところローマ人への手紙の聖句が目に止まりました。(13:13、14) アウグスティヌスの告白という書物にはこうあります。 「もはや私はそれ以上読もうとしなかったし、その必要もなかった。その文章の終わりで、たち まち光が私の心にあふれ、すべての疑いの闇は消え去った」 その後アウグスティヌスが教会やキリスト教に与えた影響は計り知れません。 他にもルター、カルヴァン、ジョン・ウェスレーなどの偉大な信仰者に大きな影響を与えました。 パウロの手紙の中でも最も直接的に福音を説いている手紙が、このローマ人への手紙だと言わ れています。 この書を学んでいくことでより私たちの信仰が強められることを期待したいと思います。 1、ローマ人への手紙の特徴 使徒パウロはこのローマ人への手紙のほか多くの手紙を書きましたが、この手紙を学んでいく にあたって幾つかの特徴を見ておくことは助けになると思います。
・いつ、どこで書かれたか? 手紙の執筆年代は紀元57年ごろ、パウロの第三次伝道旅行のことと言われています。ギリ シャのコリントで書いたのではないかと言われています。
使徒の働き 20:2,3 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシ ヤに来た。パウロはここで三か月を過ごしたが、… ちょうどコリントのそばのケンクレアという都市があります。そこのフィべという女性がローマ に行く用事があったので、手紙を書き、彼女に預け、ローマに届けられました。(16:1) ・なんのために書かれたか
ではパウロはなぜローマの信徒へ手紙を書いたのでしょうか?
一つは実際的な理由です。 パウロは財政的に困窮しているエルサレムの教会を助けるため、地方教会から集められた献金 を持って行くところでした。それを終えたら、ローマに行く予定でした。(15:28)

さらにはローマのはるか西のイスパニア(スペイン)に行くという計画を立てていました。そ のためにローマを拠点とするという実際的な事情があったのでしょう。 もう一つはローマの教会が建てられた事情にあります。 パウロは多くの教会を建てました。だがローマの教会はパウロが建てたのではありません。そ れどころか手紙を書いた時パウロはローマに行ったことすらありませんでした。 ローマの教会は使徒やイエスの弟子たちがエルサレムから使わされて建てられたのではなく、 どうやら一般の信徒が始めたようです。 あくまで可能性の一つですが、ペンテコステの時に聖霊降臨に遭遇したローマ人がエルサレム に滞在中に教えを受け、ローマに帰った後、教会を始めたのかもしれません。(使徒2:9 ~11) 設立に使徒たちが関わっていない教会という特殊な事情から、パウロはローマの信徒に福音と は何か?ということを使徒として直接教えたいと思っていました。 そのためローマ人への手紙はパウロの他の手紙とは少し違い、それぞれの教会の問題、課題に 対処する箇所や、個人的な事情に関する事柄より福音そのものに対する教えが多いのです。 そのため最も教理的、神学的、体系的な要素が強い手紙だと言われています。 あらゆる思想と宗教が溢れているローマにあって、キリスト教の真理を全体として明らかにし、 ローマにいるキリスト者たちの信仰を確立することが手紙の主要な目的であると考えられます。 2、パウロのあいさつ 今日の1:1~7の箇所はパウロのどの手紙にもある(それは古代ギリシャ世界の通常の手紙 の書き方ですが)、あいさつから始めます。これはパウロの他の手紙と比べ最も長いあいさつだ そうです。やはり行ったことのない教会に対する配慮でしょうか。 1節で送り主であるパウロ、7節で送り先であるローマの人々へ、という具合になっていま す。この箇所を簡略化するとパウロからローマの教会へ、となります。2~6節は主に福音とは何 かという長い挿入句です。 なので文章に沿ってパウロ、福音、ローマの人々という順で考えてみましょう。

Aパウロから

ローマ 1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウ ロ、 手紙はパウロの自己紹介から始まります。原文ではパウロという名前に次いでしもべという語 順になっています。「パウロ、しもべ、キリスト・イエスの」という順番です。 そのためか新改訳2017では「キリスト・イエスのしもべ」という語が先頭に来ています。 手紙が書かれたギリシャ語では伝えたい言葉をはじめの方に置きます。パウロは自分がキリス トのしもべであることに誇りを持っていました。 しもべとは奴隷のことです。奴隷と聞くと驚きますが、当時奴隷制度は一般的で古代ローマで は1/3が奴隷だったと言います。中には教師や医者など身分の高い奴隷もいたそうです。 奴隷にとって一番重要なのはどの主人につくかということです。厳しい主人につけば命も危う く、優しい主人の元につけば命の保証があるでしょう。 パウロは「キリスト・イエスの」奴隷だと言います。イエス・キリストではなくキリスト・イエ スです。イエス・キリストというとキリストが固有名詞、名前の一部のように扱われます。 しかしキリスト・イエスとはキリストであるイエスということです。キリストという称号を強調 しているのです。 キリストとは元は「油注がれたもの」という意味です。古代イスラエルでは王や祭司がその職 務に就くときに頭に油を注ぎました。次第にそれが来るべき救い主を指す称号となりました。 つまりここでは「私、パウロは救い主であるイエスの奴隷なのだ!」と言っているのです。

普段人は自分が高い地位にあることを誇ります。取締役、部長、などの役職、A大学卒業などの 学歴、資格など。しかしここでパウロは何よりキリストの奴隷という身分を誇ります。 パウロは私のようなものを、いのちを持って贖い、買い取り、救ってくださった救い主、この かたのしもべなのだと言うのです。 パウロが何者であるか、はこの方抜きには考えられませんでした。 ついでパウロの2つ目の立場を考えましょう。「使徒として召された」とはどうゆうことで しょうか?召しとは呼ぶ、招くという意味です。招かれた使徒、呼ばれた使徒ということです。 使徒とは職務を受けて使わされたものという意味ですから、職務のために召されたものという ことです。 それは自分で勝手に主張しているのではなく、神によって選び分けられ、神によって召され、 使徒となったというのです。ガラテヤ人の手紙でもこのように主張しています。

ガラテヤ 1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 パウロは自分が神の計画によって召された自覚がありました。 ではどのような職務でしょうか?「神の福音のために選び分けられ、」とあるように、パウロ は神の福音のために使徒となったのです。 福音とはユーアンゲリオン、良い知らせという意味です。 当時のローマでは皇帝の誕生日を良い知らせとして布告しました。また戦争の勝利の知らせを 良い知らせと言いました。 しかし神の福音は違います。神が計画し、神の御子がこの地上に遣わされ、人の子として誕生 したことが良い知らせ。また十字架によって罪に打ち勝った。それが良い知らせ、福音なので す。 2~5節では長い挿入として福音について説明します。福音とは何か?がパウロとは何者か?ひ いてはローマにいるあなたがたは何者かということに関わってくるからです。

B福音とは?

ローマ 1:2 –この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 ローマ 1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
ローマ 1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示 された方、私たちの主イエス・キリストです。
ローマ 1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のた めにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。 福音とは「御子に関することだ」と言います。イエス・キリストの存在自体が福音、良い知ら せだというのです。 御子の誕生と十字架上での死、そして復活は聖書(旧約聖書)によって預言されていたものでし た。決して行き当たりばったりではなく、ましてや人が考え出したものでもありません。 旧約聖書は始まりの書、創世記から 終わりの書マラキ書までおよそ1000年かけて書かれ ました。その全てが一人の方を指し示し、預言し約束ています。その約束の実現が福音なのです。 このようにして誕生した方は誰もいません。この方は人としての性質と、神としての性質をお持 ちでした。パウロはこのイエス様の二つの御性質を説明します。 「肉によればダビデの子孫として」とはダビデの子孫として人としての性質を持ってお生まれに なったことを指しています。なぜダビデの子孫なのでしょうか?それは神様がダビデにこのように 約束されたからです。
2サムエル 7:12 あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、 わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

2サムエル 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえま でも堅く立てる。 永遠の国の王として来られるダビデの子孫、ユダヤ人はその方こそ救い主だとして待ち望んでい ました。ローマ皇帝の誕生ではなく、救い主の誕生が良い知らせなのです。 その方は肉体を持たれたからこそ私たちの代表として十字架にかかり、私たちの罪の身代わり となることができました。 次の「聖い御霊によれば」とは神としてのご性質を指します。救い主として来られた方は私たち の身代わりに十字架にかかれ、死なれましたが三日目によみがえり、罪の力、死に打ち勝ちまし た。 闇は光に打ち勝たなかったのです。なぜなら神はいのちを与える方だからです。戦争に勝つこと ではなく、罪の力に勝つことが良い知らせなのです。 この方を信じるすべてのものの先駆けとしてイエス様はよみがえられました。 同時に、復活によりイエス様はご自身が神の御子であることを証明されました。 パウロはその方から使徒の務め、使命を受けたというんですね。あらゆる国の人々(新改訳 2017では異邦人)の使徒とあるように、特に異邦人の使徒としての自覚がパウロにはありまし た。 御名のためにとはちょっと分かりづらいですけど、ユダヤ人にとって名とはその存在そのもの を指します。あらゆる人が神さまを褒め称え、信仰の従順をもたらすためにパウロは務めを受け たというのです。 また信仰の従順とはどうゆうことでしょうか?信仰とは信頼するということです。従順とは聞 き従うことです。 すなわち神様への信頼のゆえに聞き従うということです。信仰には従順が伴います。信じている 信頼していると言いながら、その方に従わないならそれは偽りです。 それは恐怖とか、いやいや従うのではなく、愛の関係性のゆえにそうするのです。自分のため に死んでくださった方のために生きるということです。 このように福音とはキリストというお方そのものであるということを伝え、ついであなたがた ローマの異邦人もこの方によって救われたんだ、と続けます。

Cローマの人々へ

ローマ 1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々 です、–このパウロから、
ローマ 1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父な る神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。 自己紹介、福音の説明の後、受取人であるローマの人々が神の目にどのようなものであるか、 あなたがたは何者であるかを語ります。 それらの人々(異邦人たち)の中にあってローマの人々も召されたもの。このような言い方か らおそらくローマの教会には異邦人が多かったのではないかと言われています。 ちなみにローマの教会は家の教会と言って、それぞれの家で数人が集まっていたようです。多分 この手紙はいくつもの家の教会で回し読みされたことでしょう。(100人くらい??) さてここでも召されたという語が2回使われています。パウロが神に召されたように職務の違 い、程度の差はあれ、ローマの信徒たちも神様に召された、呼ばれた、招かれたものなのだとい うことです。
では召しの特徴とは何でしょうか?考えてみましょう。

第一に「救いへの召し」です。異邦人であったものたちがキリストによって救いへと招かれ、 応じ、救いに預かったのです。ここに神様側から始めた救いの恵みを見ます。 生まれながらの人間は神様から呼んでくださらなければ応えようがないからです。いいや神様を 知ろうとすらしません。 またその呼びかけに応じたとしてもそのようにしてくださったのも神様の恵みであるのです。 2テサロニケ 2:13 …神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めか ら救いにお選びになったからです。

2テサロニケ 2:14 ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・ キリストの栄光を得させてくださったのです。 私たちが立派だから、ではなく救いは神様の一方的選びによるものです。 第二にきよさへの召しです。召された聖徒たちとあるからです。ここでの聖と訳されている言葉 には神様のために取り分けるという意味があります。 聖餐式の時、この教会では食パンで聖餐式を執り行います。スーパーで買ってきたものでしょ う。何の変哲もない食パンがなぜ神の恵みを伝えるものとなるのでしょうか? それは神様のために取り分けるからです。それは司式者の祈りにより主イエスのゆえに聖なるも のとされるのです。 私たちも同じように神様によって取り分けられ聖とされます。もちろん間違いや罪によって汚 れることもありますが、その度に神様に立ち返り、きよめられるのです。 第三に使命への召しです。救いを受けたものは神のしもべ、奴隷として神様に仕えるからです。 パウロが使徒としての務めを受けたように、程度の差はあれどやはりあらゆる人が御名のために 信仰の従順に導かれるために召されているのです。

1コリント 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもっ て、神の栄光を現しなさい。 救われたが故に自らへりくだり、神様のしもべとして神の栄光を現す生き方を求められている のです。 ある神学者が船に乗っていたところ、乗客の中に聖書を読んでいる男を見つけたので男に近付 いて「あなたはクリスチャンですか?」と尋ねました。 男は「はい、そうです、先生」と答えました。神学者は言いました「ではあなたは何をしてい るのですか?」 

男は笑顔で答えました「私はパン屋です」 男にとってクリスチャンであることと、パン屋であることは一つのことだったのです。パンを作 り、焼くこと、すなわち日々の生活、営みが神の栄光を現し、神様に仕えていることだったので す。
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますよう に。」
パウロは長い手紙のあいさつを祝福の祈りを持って終えます。 パウロにとって自分自身とローマの人々、そして現代の私たちは福音により、神の召しによっ て結びつけられた神の子たち、すなわち神の家族なのです。 それは自らなしたことではなく、キリストの十字架という徹底的な神の恵みによる神の召し、 招き、呼びかけに基づくものなのです。 神様からの恵みを覚える時、平安(平和)が訪れます。今なぜ世界は混乱したままなのでしょ うか?私たちは祈りの中で求めます。世界に平和、平安が訪れますように。と。

しかし神の恵みを知らない限り平安は訪れません。平安の前に恵みが必要なのです。 ビリー グラハムという伝道者の集会にやってきた女性が回心したそうです。このように証ししています。 「幼くして母が亡くなった時、天罰が降ったと思った。しかし今日、神の愛を知りました。今 までは知識としては知っていましたが、理解していなかったのです。しかし神の愛を知った時平安 が訪れました」恵みを通して平安が来ます。 私たちもまたキリストによって召された恵みを知るとき、この祝福の祈りを自分のものとしま す。 パウロのあいさつはこのように召された者たちが遠く離れていても、一度も会ったことすらな くても、キリストにあって召され固く結ばれていること、そこにある恵みと平安という祝福を教 えています。 神に召されたものとして信仰によって恵みと平安を受け取ることができますように祈ります。