罪人に近づかれる神

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:城靖博

御言葉:マタイ9:9~13

トピック:罪人

聖書箇所:マタイ9:9~13
タイトル:「罪人に近づかれる神」
メッセンジャー:城靖博

アウトライン

  1. 主は招き、罪人たちとともに過ごす 9、10節
    • 「わたしについて来なさい」:イエスに従うなら一生
    • 「家で食事をしていると」: 罪人と交わる神
  2. パリサイ人の間違い 11節
    • 人を間違いとし、自分を正しいとする危険
    • 人は誰かを悪しき敵、つまり「悪人」とみなせば、これを自分の基本概念とし、そこから考えついたもの、それと対をなすものとして「善人」を思いつく  ーそれは自分自身だ!フィードリッヒ・ニーチェ
  3. 病人とはだれか 12節
    • すべての人 ローマ 3:23

マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』

形式的な信仰生活ではなく、心のこもった交わり

賛美

アメイジンググレイス

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This I Believe

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メッセージの原稿

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罪人に近づかれる神 マタイ9:9~13
1、主は招き、罪人たちとともに過ごす 9、10節
マタイ 9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご 覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。 今日はペテロやヨハネたち12使徒と呼ばれるイエス様が特に愛された弟子たちのうちの一人 マタイの召命(神の恵みによって神に呼び出されること)の記事です。イエス様はマタイを見て、 ご自身の元に招き、弟子としました。取税人とは何でしょうか?当時のユダヤはローマ帝国に支 配されていましたので、税金を払う必要がありました。取税人とはローマ帝国の手先となって同 じユダヤ人から税金を徴収、取り立てる人です。しかも税金を取る時、余分にとって自分のもの とすることも珍しくありませんでした。なので当時のユダヤ社会からは裏切り者、卑怯者とみら れ、忌み嫌われていました。そんなマタイがイエス様に呼ばれ、弟子となります。マタイは裕福 だったでしょう。それなりに満ち足りた生活を送っていたでしょう。お金があり、ローマ帝国の 後ろ盾がありました。しかし人々からは妬まれ、蔑まれ、嫌われていた。そんな生活で何か虚し さを感じていたのでは無いでしょうか?お金をたくさん手に入れた。しかし何かが虚しい。そん な彼をみて、イエス様は彼を招きました。「わたしについて来なさい」この言葉は「私に従い続 けなさい」とも訳せます。ただ一時的に従いなさいではなく、生涯従い続けなさい、ついてき続 けなさいということです(現在時制命令法)。このように一旦イエス様に招かれ、従う決心をし たなら、それは一生です。自分の全生涯を投じてイエス様に従っていくのです。マタイにとってそ れは特に後が無い決意を必要としました。というのは取税人の仕事を捨てたなら、もう戻ること はできないからです。他の12使徒、たとえばペテロなら漁師の仕事を捨てても戻ることができ ます。(というかイエス様が十字架にかけられた後、いったん漁師に戻ったようです(ヨハネ2 1:3))しかし取税人は一度その仕事を退いたら戻ることはできないでしょう。 しかも当時のユダヤ社会では仕事は世襲制、すなわち親の仕事を引き継ぐのが普通でした。 (ヨハネも親と一緒に仕事をしている(マタイ4:21))。つまりマタイは自ら選んで人から嫌 われてでも金儲けができる仕事を選んだということです。だがそれをイエス様の招きに応じて捨 てたのです。それは大変な決心、決意だと思います。だが彼はすぐさま招きの言葉に反応しまし た。私たちもイエス様の招きにすぐさま応じる必要があるのではないでしょうか。もう少し立派 になったらとか、いい人になったら信じようとか。アレコレの罪や習慣をやめれたら、もっと善 行を積んで洗礼を受けようとか。ではなく、呼ばれたと感じた時がイエス様についていく時です。 マタイは自分がイエス様にふさわしいかどうかではなく、イエス様が呼ばれたことに応答した のです。これは大事なことです。というのはイエス様に従うのにふさわしい人は誰もいないからで す。誰も神のみもとに行く資格など持っていません。というのはすべての人は罪を犯したからで す。人となられた神、イエス様の招きがあるからこそ、そこに行くことができるのです。
マタイ 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イ エスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。 その後彼はイエス様を自分の家に招きました。「家で食事をしていると」とありますがこれは 聖書の他の箇所を見るとマタイ(レビ)が自分の家にイエス様を招いて食事したのです。(ルカ 5:29)イエスさまの弟子となったことが嬉しかったのではないでしょうか。多くの仲間を招 きます。しかし嫌われ者の取税人マタイの友人ですから、同じような立場の人々です。ここでの罪 人とは宗教的習慣や儀式を守れない人たちのことです。そのような人々を宗教的指導者であった パリサイ人はさげすみ、見下し、忌み嫌いました。取税人も先ほど説明したように社会の嫌われ 者です。それを見たパリサイ人たちはけしからんとイエスの弟子たちに文句を言います。次にその パリサイ人の言葉を見てみましょう。 

2、パリサイ人の間違い
マタイ 9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あな たがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」 去年吉本興業のお笑い芸人、雨上がり決死隊というコンビの宮迫さんのいわゆる闇営業問題が 話題になりました。事務所を通さずに仕事を受け、反社会的勢力が主催する会合に出席したとい うのです。彼は記者会見で嘘をついたということもあり、世間から非難を受け、謹慎処分となり ました。このような厳しい処分を受けたのも反社会勢力に対する吉本興業や社会の姿勢の現れだ と思います。 パリサイ人たちが非難するのも闇営業の問題を考えるならわかる気がします。イエス様も反社会 的とみられていた人々、罪人や取税人たちと親しく食事をしました。罪人や取税人と食事を共に し親しく交わるとは何事だというわけです。そのために当時の宗教的エリート、パリサイ人から 非難を受けたのです。私たちは問題のあると思っている人、要するに嫌っている人に共感する 人、親しくする人を非難する傾向があるからです。ある人を悪人、ある人を嘘つき、ある人をど うしようもない人と決めつけ、レッテルを貼り、自分と切り離すのです。そのような人と親しくす るものも仲間だと思い同じレッテルを貼ります。 だがイエス様はこのように人を見ませんでした。もちろん悪は悪、罪は罪として決して受け入れ ません。しかしその人自身をありのままで受け入れ、神に愛されたかけがえのない価値あるもの としてみるのです。罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますね。確かにその人は罪を犯した が、罪を犯すにはその人なりの事情があったろうから寛容でいなさいという態度です。イエス様も マタイのうちにある問題や虚しさをじっとみ、招きました。そして罪人や取税人らと食事し、親 しく交わりました。イエス様は罪の行動と、その人を一緒くたにしないのです。 なぜなら人は皆神のかたちに造られ、神様との交わりのうちに生きるものだからです。しかし その神のかたちは罪によって破壊されてしまいました。それで神との交わりが破壊されてしまっ たのです。イエス様は十字架にかかることによって私たちの神のかたちを回復し、私たちが神と 再び交わることができるようにしてくださいました。確かにこの人は間違いを犯し、極悪人でど うしようもない人かもしれない。しかし神のかたちが回復する可能性が残されているのだと。私 たちも考えるべきではないでしょうか。 神様はその人の行動もみますけど、何よりその人格全体をみる方です。 だが私たちは自分の都合の悪い人、嫌いな人、気に入らない人にレッテルを貼り、排除しよう とします。「あの人はどうしようもない人だ」と。それがまるでその人の人格そのものであるよ うに、だがそれは正当なのでしょうか。 さらに相手にレッテルを貼り、自分と切り離すことはさらなる危険を伴います。それは自分は この人と違うという態度を生み出すのです。 ニーチェという哲学者の言葉が本に載っていました。 人は誰かを悪しき敵、つまり「悪人」とみなせば、これを自分の基本概念とし、そこから考え ついたもの、それと対をなすものとして「善人」を思いつく ーそれは自分自身だ! 誰かにレッテルを貼り、あの人は悪人だといい自分と切り離す時、知らず知らずのうちに自分 の方が正しい、善人だという意識が湧いてくるという事を言いたいのでしょう。それは危険なこ とです。なぜなら相手の持っている問題、傲慢であれ、快楽、強欲、高慢であれ、それは態度の 差はあれ誰もが持っているものだからです。最近ある芸能人が不倫をして、世間から大バッシング を受けました。確かにそれはいけないことですけど、その存在そのものまで価値のないものであ るかのように扱ってしまう。そのように過剰に反応してしまうのは自分もそのような性的な逸脱 に対する関心があるからではないでしょうか。故に相手を批判することで自分は正しい、あいつとは違うということを証明したいのかもしれないと思うのです。それは自分のうちのやましさが 生み出す同族嫌悪かもしれません。かえって自分の中にもそのような間違いや思いがあるからこ そそれを否定したいのです。そして自分自身は高ぶったままでしょう。それがパリサイ人たちの 間違いでした。 「あいつらは罪人で取税人だ、そして私たちは善人だイエスはなぜ私たちではなく、あいつら と付き合うのか」というのです。しかしイエス様は決して悪を認めることはなかったが、そのよう な悪の中で苦しみ、悩み、嘆いているそのような罪人をことのほか愛されました。 札幌市東区にある北洋建設という会社があります。従業員60人ほどの小さな会社だが、その3 分の1は出所者だという。これまで500人以上の前科者らを雇用し、その数は法務省から日本一と 言われています。一人の元受刑者を受け入れるのに最初に40万円ほどの費用がかかります。入社 早々に辞めたり、いなくなったりすると、その費用が無駄になってしまうので、正直厳しい、国 の助成金にも限りがあるので、土地を売ったりして費用を捻出しているそうです。ではなぜそこま でして元受刑者を雇うのかというと、こうおっしゃるのです。 「人は仕事があれば、再犯しない」と。 しかし、社員として定着する元受刑者は1~2割だという。入社一日で行方をくらます人も珍し くない。だが社長はその人を信頼し、そのまま受け入れ、まず更生の可能性にかけてみるんです ね。 イエス様も私たちが回復し、救われることを信頼してそこにかけてみる方です。小澤社長が大き な犠牲を払い元受刑者を雇ったように、いやそれ以上に大きな犠牲を払いました。それはご自身 のいのちです。何よりもまずご自身が罪人に近づき、更生する事を願っておられるのです。マタイ を新しい働きに召したように、私たちも召しておられます。 次にパリサイ人たちに対するイエス様の言葉を見てみましょう。

3、病人とはだれか
マタイ 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人で す。 ここではイエス様はご自身を医者に罪を病気にたとえています。私を必要とするのは罪のないも の(丈夫なもの)ではなく病人(罪人)だということです。これは罪のない人がいるということ でしょうか?もちろん違います。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 すべての人は罪人です。これは自分が罪人だと知って、その罪を嘆き、神の憐みを求める人にこ そイエス様は必要でその病、罪を癒してくださるということです。 まず神様に近づくのに必要なのは自分の功績を誇るのではなく、ありのままの自分で近づく事 です。 最強のふたりという映画を見ました。パラグライダーで事故にあい、首から下は全く動かなく なってしまった金持ち、フィリップと。貧しい若者ドリスという男の友情の物語です。実話に基づ いた話だそうです。 介護役を探し、面接会を開いていたフィリップのもとに様々な人が訪れました。私はこれがで きる、こんな経験を積んできた。こんな資格を持っている。いわゆる立派な人たちがやってきま す。しかしその中に刑務所を出たばかりのドリスがやってきて言います。面接をしたが不合格とい う書類にサインしてくれというのです。というのはドリス自身、雇われるなどと夢にも思ってなく て、単に失業保険をもらうために書類が欲しかっただけなのです。だがフィリップはそんなドリス を雇います。ある人がフィリップに忠告をします。あいつは不良で、刑務所帰りだ。そんな男に自 分の介護を委ねるにはあまりにも危険だ、あいつのどこが気に入ったんだ?と。フィリップは言います。「私を障害者扱いしないところだ」と。ドリスは確かに問題があるけれども、フィリップ に全く遠慮しないんですね。金持ちと貧乏人、障害者と健常者、地位のあるものとないもの、こ れらの垣根を越えて、自分を飾らず、ともに遊び、笑い、質問し、飾らずに自分に接してくれるの が気に入ったんです。 神様も自分がこんなに立派なことができる。私を合格にしてください。という人ではなく、ま ず「あなたを愛しているよ」という神様の呼びかけがあり、その呼びかけに応え、ありのままで 御前に出る人を求めています。どこかよそよそしい形式的な交わりでなく、ありのままで飾らない 交わりを求めておられます。ただし罪人が神様との垣根を越えたのではなく、神の側から垣根を 超え、人となられ、罪人の中に入り、あなたに近づいたのです。 パリサイ人たちは自分を病人、罪人だとは認めませんでした。いや、むしろ神に受け入れられ るのは自分たちだと思っていたでしょう。しかし彼らにに拒絶された罪人や取税人は自分が正し くないこと、神に受け入れられない事を嫌というほど知っていたでしょう。そのような罪人をこ とのほか愛されイエス様はやってこられました。罪人のただ中に。彼らこそ愛される必要がある からです。神の恵み、愛が不要な人などいるでしょうか?いいえ。すべての人はありのままで、醜 い自分でも、いや、それならなおさら愛される必要があります。そのような人が神のみもとに大 胆に近づけるように罪なき神ご自身が人の形を取りこの世界に来られたのです。 そうして罪なき方が犠牲になられたのです。医者が病気にかかっていてはそれは医者である以前 に病人です。罪という病を癒すためには罪なき方イエスが必要だったのです。

マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学 んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 神様は人間が神様を愛し、仕えて生きるためにその指針となる律法を与えられました。パリサ イ人をはじめとするユダヤ人は律法を追求し、いけにえなどの律法をことごとく守ろうとしまし た。しかしそれ故に大切なあわれみ、神が自分を憐み愛してくださっていること、また同じよう に自分も他の人を憐み愛すべきであること。それを忘れてしまいました。憐みの故に罪の中でも がいている罪人をご自身のもとに招き、それによって神様に良いとみられる生き方ができるよう になるためイエス様は招かれているのです。そのためにイエス様は罪人の罪を背負って十字架にか かられました。 ウィスコンシン州のミルウォーキー市警に勤務するケビン・ジマーマン巡査は10月12日、 パトロール中に、ある車の登録情報に不備があることに気が付き、停車させました。 車には女性の運転手と3人の幼い子供。チャイルドシートは設置されていなかった。同州では チャイルドシートを設置しないで子供を車に乗せるのは違法だ。 アンドレア・ジャクソンと名 乗った女性は、巡査に事情を次のように説明した。 車は先日、競売で入手した。登録料が払えなくて、情報がまだ前の持ち主のままになってい る。5人の子供がいて、冬に備えて服や靴を買わなければならないので、チャイルドシートにまで お金が回らない……。 ジマーマン巡査はどうしたでしょうか。女性の氏名と住所を控え、違反キップを切ることな く、アンドレアさん一家を解放したのです。 それだけでなくジマーマン巡査は、その足でウォルマートに行き、チャイルドシートを2つ買 い、アンドレアさんの家に行った。そしてビックリしている彼女にこう言った。 「お子さんの安全のためにこれを買ってきました。いろいろ大変でしょうが、この件に関しては 安心してください」

チャイルドシートによって、事故における子供の死亡率は、赤ん坊なら71%、幼児なら4 5%も下がると言います。 長年警察に勤めていたジマーマン巡査はその事をよく知っていまし た。そして車にチャイルドシートを取り付けて、帰って行ったという。 心からの親切に感動したアンドレアさんは、2人の娘と一緒に写ったジマーマン巡査の写真な どをフェイスブックに投稿し、事情を説明し、感謝の言葉を記しました。 「いけにえよりあわれみを」法律によるとアンドレアさんは有罪です。しかし巡査は憐みによっ て彼女を赦し、自ら犠牲を払い、チャイルドシードを買い、取り付けたのです。それは一方的な 恵みです。いわばアンドレアさんの罪、問題、貧しさを自らのものとして負ったのです。それ故ア ンドレアさんは法律を守れるようになりました。彼の愛に応え、法律を破るわけにはいかないと 思うでしょう。それは決して嫌々ではなく、しょうがないからではなく、自ら愛の応答として行 動するものです。このように愛は人格にすら影響を及ぼすものではないでしょうか。いや愛だけ が人格を変えることができる。故にその欠如は多くの場合自分や他人を誤った道に踏み込ませる のです。 イエス様はそのような罪人を招くためにきました。罪人を満たすために一方的に私たちを愛 し、ご自身の命という犠牲を払われました。それ故に私たちは変えられ、律法をまもり、神の喜 ばれるきよい生活を生きることができるのです。私たちもその招きに応答してイエス様に従い続け ていこうではありませんか。

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