神様と交わりを持っている人たちのしるし (パート2) 

豊かな命キリスト教会

リソース作成者:クリス・リズデン

御言葉:第1ヨハネの手紙1:5~2:2

トピック:信仰

聖書箇所:第1ヨハネの手紙1:5~2:2
タイトル:「神様と交わりを持っている人たちのしるし」(パート2) 
メッセンジャー:クリス・リズデン

アウトライン

  1. 彼らは自分の罪を隠しません。(6 節)
  2. 彼らは光の中を歩む。(7 節)
  3. 彼ら自身についての本当のことを認めます。自分たちの罪の現実を 否定する事はしません。(8, 10 節)
  4. 彼ら自身の罪を告白します。(9 節)
  5. イエス様は私たちの弁護です。(2:1)
  6. イエス様は世全体の罪のために犠牲です。(2:2)

賛美

私の望みは主イエスだけにある

私の望みは主イエスだけにある

土の器

土の器

メッセージの原稿

(1) B-01

先月私は、第一ヨハネの手紙  1章5節から 2章2節までのところのメッセージをしました。主に1章5節の「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と言うところに焦点を当てました。神様は完璧に純粋で、罪がありません。でも、私たちは人間として 罪深い性質があります。だとしたら、どうやって 私たちが神様と交わりを持つことができるでしょう? イエス・キリストは、私たちの罪の罰を支払うために 十字架の上で死なれました。信仰を通して 私たちがイエス・キリストの赦しを受け取るときに、それと同時に 私たちは、キリストの正しさを 受け取るのです。キリストが私たちのためにしてくださったことのゆえに、私たちは神様と交わりが持てるのです。

(2) B-02

今日私たちは、第一ヨハネの手紙1章5節から 2章2節の続きを 学びます。「神様と交わりを持っている人たちの しるしは、どんなものだろう? 」と言う疑問について 考えます。また、もう一つ、「クリスチャンたちは 自分たちの人生、生活の中の罪に対して どう対処しているのか?」と言う事についても考えます。第一ヨハネの手紙1章5節から2章2節までを読みましょう。(Read 1John 1:5-2:2)

  6節では、神様と交わりを持っている人々の 最初のしるしが わかります。彼らは自分の罪を隠しません。ここの3つの節では、「もし、私たちが なになにと言うなら…」と、始まっています。キリストを信じる者として、私たちが言っていることと、私たちの行動が一致していることが、ものすごく重要です。神様は光です。なので、私たちが本当に神様と交わり、フェローシップを持っているならば、私たちは暗闇の中を歩みません。ヨハネが、この箇所や、別の箇所でも使っている「歩み」と言う言葉は、人の人生や生活のパターンのことを言っています。人はどんなふうに 矛盾のない生き方をしているのでしょう? もし人が、暗闇の中を歩んでいるなら、その人は罪に支配されたパターンという 矛盾のない生き方をしています。だから、この人 本人が、何と言おうと、この人は神様との交わりの中には いません。彼らは誠実に人生を 生きてはいません。

(3) B-03

ローマの時代、ある彫刻家たちは、彼らの作った彫刻の欠陥や欠点を隠すために、ロウを使いました。ロウが溶けてしまうほど 彫刻が暑く ならなければ、その欠点は見つかりません。一方で、ある正直な彫刻家たちは、彼らの彫刻の上にラテン語で 「sine cera」と書きました。「sine cera」は、「ロウは使っていない」という意味です。正直じゃない彫刻家たちのように、私たちは人間として、自分たちの欠点を 隠そうとする性質があります。エデンの園で、アダムとエバが神様に背いた後、彼らは自分たちの裸と 恥を隠すための覆いを、つくりました。私たちが神様に罪を犯すとき、私たちは自分の罪を よく隠そうとします。神様と交わりを持っている人々は、彼らの罪を隠そうとしません。むしろそれとは逆に、7節では、神様と交わりを持っている人たちは、光の中を歩むと 言っています。光の中を歩むとは、どういう意味でしょうか? 5節では、神は光であると言っています。その意味は、神様は完璧に100% きよく 聖なる方で、正しい方であるという意味です。クリスチャンたちが光の中を歩む時、それは 彼らが正しい生き方をしているという意味です。彼らは、神様を喜ばせるような 生き方を しています。それは、罪を犯さないという意味ではありません。その事は、8節から10節でも明らかです。彼らの生き方のパターンが 神様を喜ばせているという意味です。神様を喜ばせることが、どういうことなのか、私たちはどうやって 知ることができるでしょう? 神の言葉が私たちにそれを教えてくれます。なので、光の中を歩んでいる人たちは、神様の言葉に従って生きています。

(4) B-04

もし私たちが、光の中を歩んでいるなら、私たちの罪を隠すことができません。なぜなら、神の光は、私たちの人生の中のいかなる罪も あらわに 照らし出すからです。そして、私たちは正直に 罪を神様の前で、告白することができます。皆さんは、人生の中で 自分の罪を隠そうとしたときのことを、思い出せますか? 私はもちろん 思い出せます。私たちが自分の罪を 覆い隠そうとする時に、その事は、私たちの神様との交わりの邪魔に なります。でも、私たちが光の中を歩むなら、7節にあるように2つの素晴らしい結果を見ることができます。まず初めに、私たちは、お互いの交わりを保ちます。「お互い」とは、他のクリスチャンたちのことを 意味しているといえます。私たちが光の中を歩んでいないなら、他のクリスチャンたちとの交わりも、うまくいかないというのは、本当にそうだと思います。他のクリスチャンの仲間たちと正直に オープンにつながる代わりに、自分の罪を隠そうとすることに 私たちの気持ちが集中するでしょう。それは、とても嫌な気持です。でも、そんな状態でいる必要はありません。もし私たちがクリスチャンならば、私たちの内側に、聖霊が住んでいます。聖霊が私たちを、光の中を歩むように助けてくれます。

(5) B-05

私たちが光の中を歩むときに もたらされる2つ目の素晴らしい結果は、御子イエスの血が、すべての罪から 私たちをきよめてくれると いうことです。「きよめる」という言葉は現在形です。なので、十字架の上で流されたイエスの血は、現在進行形で、今 現在の罪と、そして 未来の罪から 私たちをきよめてくれると いう意味です。イエス様はまた、私たちに 過去の罪からの赦しも、与えてくれました。私たちは毎日この「きよめ」られることを 必要としています。なぜならば、人間として、私たちはアダムから受け継いだ 罪の性質があるからです。私たちは毎日、罪と格闘しています。だから、私たちには神様の恵みが ものすごく必要なのです。私たちが救いのために キリストに信仰を置いたとき、私たちは新しい性質を受け取ります。神様を ほめたたえます。この 神様を見上げ 信頼するという 新しい性質は 神様を喜ばせる生き方を 私たちがするのを 助けてくれます。

(6) B-06

8節と、10節はとてもよく似たことを言っていますが、その深刻さの度合いに 違いがあるように見えます。8節に出てくる人々は、罪は無いと言っています。彼らは自分たちに 嘘をついています。6節に出てくる人々は、彼らの周りの人たちに対して 嘘をついています。10節にある状況は、もっとひどいものです。ここに出てくる人たちは 罪を犯していないと 言っています。このことは、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、それは神様の言葉と 全く正反対のことを言っているからです。ローマ人への手紙3章23節では、「全ての人は、罪を犯したので、神からの栄養を受けることができず」と言っています。神様と交わりを持っている人たちは、彼ら自身についての本当のことを認めます。彼らは、自分たちの罪の現実を 否定する事はしません。

(7)B-07

それどころか、むしろ 彼ら自身の罪を告白します。その事は 9節にあります。ここは、聖書の中でも最も美しい箇所の中の1つです。

この箇所は、神様からの素晴らしい約束を 私たちに与えてくれます。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを きよめてくださいます。」イエス様が十字架の上で死んだ時、私たちの罪が赦される道を与えてくださいました。これは、私たちの現実の罪の性質に、解決を与えてくれます。イエス様の血は、過去、現在、そして未来の罪の赦しを与えてくれます。また、私たちを神の家族の一員としてくれます。そして神様は私たちの父となります。これは変わることがありません。私たちがこの地上の自分の父親にそむく時、私たちと自分の父親との 関わり 交わりがダメになります。でも、それでも私たちはまだ家族の一員であり、何ものも それを変える事はできません。もし私たちが、父親に赦しを乞うならば、父親との交わりは 回復します。私たちの天の父なる神様とも 同じことです。もし私たちが キリストに従うものならば、私たちは神の家族の一員です。その身分は、変わることがありません。でも、もし私たちが神様に対して 罪を犯すならば、神様と私たちの交わりが 傷つきます。私たちは、神様のもとへ行って、自分たちの罪を 告白する必要があります。私たちがそれをする時、神様との交わりが 回復します。

(8)B-08

9節の 私たちの罪を言い表す、告白するとは、どういう意味でしょうか? 私たちが自分の罪を 言い表すというのは、私たちの罪のみにくさを、私たちが認めると いうことです。神様は罪を憎まれます。 皆さんや私も、罪を憎むべきです。私たちが自分の罪を言い表す時、神様は私たちを赦し、私たちを きよめてくださいます。それはなぜでしょう?  神様は誠実を尽くしてくださる方で、私たちの罪を赦したいと望んでおられる方だからです。また神様は正しい方で、私たちの罪を赦すことができます。次の2つの理由から、神様は私たちを赦すことができます。まず1つ目に、神様は 「神」なので、私たちを赦すことができます。2番目に、十字架の上でイエス様が 私たちの罪の罰を支払ったので、私たちを赦すことができます。

      裁判官は罪を 見逃すことができません。もしそれをすれば、不正になります。それと同じように、神様は私たちの罪を 見逃すことができません。もしそれをするなら、不正になり、神様の性質に反することに なります。罪の罰、ペナルティーは支払われないと いけません。でもイエス様がご自身の赦しを受け取る すべての人のために、その罪の罰を支払ってくださいました。神様をほめたたえます。

(9)B-09

私たちの救いための キリストの地上での働きは、完了しました。でも、第一ヨハネ2章1節では、イエス様は すべてのクリスチャンたちのために 今も働いていることがわかります。まず初めに、2章1節にこの手紙を書き送る理由が 書かれています。ヨハネは、私たちが罪を犯さないようになるために この手紙を書いていると、言っています。キリストを信じる者として、罪を犯すことを避ける事は 可能です。クリスチャンとして生きていくときの 大切なゴールは、私たちがキリストに、 似たものと なっていくことです。私たちが ますますキリストと親密に人生を歩む時、私たちは前よりも 罪を犯さなくなります。けれども、この世で私たちが生きている限り、私たちは罪を犯します。それが現実です。でも、私たちが罪を犯す時、2章1節では、イエス様が、天の父なる神様の前で 弁護してくれると言っています。ヨハネの黙示録12章10節では、悪魔が絶え間なく 神の御前で私たちを訴えていると 言っています。悪魔が私たちをそのように責めるとき、天の父なる神様の前で 私たちを弁護するために イエス様がそこにいます。私が罪を犯すとき、たぶんイエス様はこんなふうに言うでしょう。「クリスが罪を犯した。それは事実だ。でもその罪の罰、ペナルテイーの 代価は、私の血によって支払われた。だから、私に請求書をよこしなさい」なんと素晴らしい救い主でしょうか!

(10) B-10

2節では、十字架上のキリストの犠牲の 驚くべき力を 私たちに示しています。キリストの犠牲は、私たちの罪の重い代価を 完全に支払うことができます。なので、神様は 皆さんや私を赦すことができます。 驚くべきことに、キリストの犠牲は また、この全世界の罪の代価を支払うためにも十分です。でもこれは、すべての人が救われると言う意味ではありません。キリストの犠牲は、キリストを信じる世界中の全ての人の 罪の罰を支払うために、充分であると、いうことです。私たちを許すために イエス様がしてくださったすべてのことを思い、神様をほめたたえます。そして、私たちが神様の光の中を歩むなかで、神様が今も私たちを赦し、きよめてくださっていることを感謝し、賛美します。

お祈りしましょう。 

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。