松本豊かな命キリスト教会
水の上を歩くイエス様 // Jesus Walked On Water – 松本 豊かな命キリスト教会 // Matsumoto Abundant Life Christ Church
メッセージ内容
メッセンジャー:水谷潔先生
タイトル:「牧師招聘と教会の成熟」
聖書箇所:Ⅰコリント3章1-9節
Message Info
Speaker: Kiyoshi Mizutani
Title: “A Pastor’s invitation and church maturity”
Bible Passage: 1 Cor 3:1-9
メッセージ原稿
「牧師招聘と教会の成熟」
今回は、御教会が牧師招聘を願って祈っておられることを覚えて、この聖書箇所を取り次ぐことにしました。この朝は、2000年前に牧師交代を経験した教会に対してパウロが語った言葉を今日の私たちへの語り掛けとして、お取次ぎします。
ただ今、お読みいただきました第一コリントの3章の背景にあったのは、今日で言えば、牧師交代でした。そのことは6節から、分かります。コリント教会の信徒たちに対して、パウロは6節で「私が植えて、アポロが水を注ぎました」と記しています。コリント教会は、パウロが開拓伝道をして、スタートした教会です。そして、後任者としてアポロが指導者となって、教会を建て上げてきたのです。
コリントというのはギリシャの一都市です。そして、パウロはギリシャにとっては外国人であるへブル人で、アポロは自国人であるギリシャ人でした。ですから、これは、今日の日本の教会に当てはまれば、外国人宣教師の開拓から教会が始められ、日本人牧師にバトンタッチされた状況に相当するでしょう。
そうした状況の中で、コリント教会の中で起こっていたのは、3節でパウロが指摘している通り、「ねたみや争い」でした。そして、その妬みと争いの根底にあったのは、4節に書かれているように、「私はパウロにつく」という信徒もいれば、「私はアポロにつく」という不一致でした。一つの教会の中にパウロ派とアポロ派が存在するという残念な現状があったのです。
それに対して、パウロは、一読すればわかる通り、教会の未熟さを指摘しました。一人一人に対して、自分の成熟度を問うたのです。このことは、今日も同様です。教会にとって、牧師が続投するか交代するか?交代するとしたら、誰に交替するかはとても大切な問題です。時には教会にとっての試練です。しかし、聖書は、それ以上に大切な問題として、当たらに牧師を迎えるに際しての教会の成熟度を私たちに問いかけています。
そこで、この朝は、「牧師招聘と教会の成熟」と題しまして、第一コリント3章前半の御言葉を、牧師交代を迎える御教会への語り掛けとしてお取次ぎします。今日は三つのポイントで、牧師を迎えるに際して問われる教会の成熟について、三つのポイントで御言葉の指針を見てゆきたいと願います。
~本論A~
「牧師招聘と教会の成熟度」、その一つ目は、「未熟と成熟を分けるのは何か?」ということです。「未熟と成熟を分けるのは何か?」、つまり、教会や一クリスチャンの成熟度を測る基準は何かということです。
この3章で、パウロはコリント教会の信徒たちの未熟さを、様々な言葉で指摘しています。1節に登場する言葉は、「肉に属する人」と「キリストにある幼子」です。肉に属する人とは、キリストによって変えられておらず、生まれながらの性質が支配的なクリスチャンのことで、新しく生まれても成長していないので「キリストにある幼子」とたとえられます。
続いて、2節でパウロは、硬い食物は無理で乳しかのめない赤ん坊にたとえています。さらに、3節と4節ではコリントの信徒たちを「ただの人のように歩んでいる」「ただの人たちではありませんか?」と叱責しています。つまり、クリスチャンだけども、ただの人、未信者と変わらないでしょうが、指摘しています。
パウロの表現を借りるなら、クリスチャンの成熟と未熟は、対照的にこう表現できるでしょう。「御霊に属する人と肉に属する人」「キリストにある大人とキリストにある幼子」「堅い食物を食べられる者とそれが無理で乳しか飲めない者」「本質において未信者とは大きく違う者と、未信者同様の者」です。
そこで、考えたいことがあります。パウロはここで何を根拠に、何を基準して、彼らを未熟だと判断しているのでしょう。もう、お分かりだと思います。3節と4節にある通りです。教会内に「妬みや争い」があったからです。そして、その根底にあったのは「パウロにつくか?アポロにつくか?」という神様よりも人に結び付いてしまう体質でした。
そうです。ここで、コリント教会を未熟だと判断した理由は、「人につくこと」でした。神様より指導者など人につくことは、クリスチャンが持つ未熟さの典型的な現れです。そのことを指摘した上でパウロは5節から7節を通じて、「人につくこと」について、何がどう間違っているかを説明しています。5節から7節までをお読みします。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
もう、お分かりでしょう。コリントの信徒たちの間違いは、種をまき、水を注ぐ主のしもべを、成長させてくださる神様より優先したことにあります。神の僕を神以上の立場においたことです。そして、神様に結びつくよりも、しもべである人に結び付いてしまったことです。
人につくことは、未熟さの代表です。牧師との出会いを通じて信仰を持つことは幸いなことです。牧師との出会い、信頼関係は大切でしょう。しかし、その牧師が転任するなどして、牧師との個人的関係がなくなれば、神様とのつながりもなくなるとしたらどうでしょう?
優れた指導者と出会い、その指導者との信頼関係の下で充実した信仰生活を送れたら祝福でしょう。しかし、もし、その熱心さや忠実さが指導者個人への忠誠心や指導者に認められたいという承認欲求によるものだとしたらどうでしょう?
私の恩師の一人にあたりますある牧師は、30年ほど前に、アメリカの神学校を卒業後に礼拝人数200人程の教会の主任牧師として迎えられました。前任者は、大変著名な牧師で、名前を申し上げれば、たぶん皆さんの全員がご存知の方です。30代前半で神学校を卒業したばかりとは言え、著名牧師が後任者として指名するのですから、どんなにか将来有望な伝道者であったかはご想像いただけると思います。
しかし、残念なことに、先生が就任されると、教会員は次々と去っていきました。いくら優秀とはいえ、前任者に比べれば、未熟で不十分に映ったのでしょう。一年ほどすると200人だった礼拝人数は100人になります。礼拝人数が一年で半減です。さらに残念なことには、その牧師を招くことに決め、支えるはずだった役員も半数ほどが別の教会に移ってゆきました。
しかし、この教会は教勢を回復してゆきます。この状況を悲しんだ若い世代のクリスチャンたちや救われて間もないクリスチャンたちが、危機感をもって青年牧師夫妻と共に、伝道に燃え始めたのです。その結果、数年後には、礼拝人数はほぼ、元通りとなりました。今、30年前の青年たちは役員などを務め、その牧師もリーダー的存在として活躍なさっています。
さて、ここで考えてみましょう。牧師交代を機に教会を去っていった200人教会の役員さんと救われて間もなかったクリスチャン青年たち、どちらが成熟していたのでしょうか?どちらが、大人でどちらが、幼子、どちらが霊に属しており、どちらが、肉に属していたのでしょう?大教会で役員を務めていたベテランと新米クリスチャン、どちらが、神様に結び付き、どちらが人についていたのでしょう?
聖書は、牧師交代を経験したコリント教会の未熟さを指摘します。「ある人が、私はパウロにつくと言えば、別の人は、私アポロにと言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」「牧師招聘と教会の成熟度」、その一つ目は、「未熟と成熟を分けるのは何か?」ということです。未熟と成熟を分けのは「誰に結び付いているか?」です。神の僕と神様ご自身、植えて水を注ぐ指導者と育ててくださる神様、そのどちらについているかです。
新たに牧師を迎えようと祈りっておられる皆さんが、2000年前のコリント教会の牧師交代と自らを重ね合わせてくださればと願います。そして、聖書の御言葉の前に、まず、自らの成熟度を自問し、牧師招聘に備えてゆきましょう。
~本論B~
続いて二つ目です。「牧師招聘と教会の成熟度」、二つ目は、「未熟さが教会にもたらすのは何か?」ということです。「未熟さが教会にもたらすのは何か?」です。神様ご自身より神様の僕を大切にし、神様より指導者と結びつく未熟さは、教会に何をもたらすでしょう。
その一つはまさに4節にあるように、「前任者であるパウロにつくか?」「後任者となったアポロにつくか?」という不一致、分裂です。
例えば、よい働きをされた前任者が退かれます。お世話になった信徒たちが前任者に対して強い心情的な結びつきを持つのは当然です。また、時間をかけて前任者と築き上げた信頼関係が終わって、後任者と一から信頼関係を築き上げていかなくてはならないとなれば、正直ストレスに感じることでしょう。そこで問われるのは信徒の成熟度です。
神様ご自身に結び付いている成熟した信徒は、後任者と信頼関係を作る努力をしていくでしょう。しかし、神様でなく前任者に結び付いている未熟な信徒は、後任者を受け入れる前に、自分の前任者との関係を基準にして、後任者を評価します。
説教や牧会のスタイルには多様性があるものです。前任者と後任者は優劣だけでなく、スタイルに違いもあります。しかし、未熟な信徒は、前任者と違っているというだけ理由だけで、後任者のスタイルを受け入れず、賜物を殺してしまいます。牧師が本来の力を発揮できなければ、信徒の成長も滞ります。何より牧師と信徒の関係がなければ、教会の働きが前進することは期待できません。
ですから、そうならないように、後任者に負の遺産を押し付けないために、牧師たちの多くは、先輩方から大切なことを教えられます。それは、「牧師は、信徒を自分に結び付けてはならない」ということです。牧師の使命は、信徒を神様に結び付けることであって、自分に結び付けることではないのです。「教会を牧師のファンクラブにしてはならない」という厳しい言葉をもって戒めてくださる方もいます。
もし、牧師が信徒を神様でなく自分に結び付けようとするなら、教会の頭は、キリストではなく、牧師です。もし、教会が牧師のファンクラブになれば、その教会はキリスト体ではなく、牧師の手足です。それは、牧師による教会の私物化に他なりません。
私がそのことを考える時、思い浮かぶのは、この東海地方の福音派教会のリーダーを務めてこられたある先生です。ある教会を20年以上牧会され、教団の代表を務められたこともある、いわば大御所牧師です。以前、その先生は、長年牧会してきた教会を後任に託されて、遠くの地域の教会と転任されたのですが、その年、私は驚くべきことを知ることになります。
何と、その教会の信徒さんたちは、先生ご一家の転居先の住所も、電話番号も、メールアドレスも一切の連絡先を教えていただけず、一年間は連絡をすることを禁じられたというのです。それは、先生の意向でした。その先生は信徒の方々に「私は死んだと思ってください」とお願いしたそうです。
優れた働きをされた牧師程、信徒を真摯に愛する牧師程、未熟な信徒が自分につながってしまいます。転任の際には、後任者に負の遺産を押し付けることになりやすいものです。場合によっては、前任者支持派と後任者支持派で、教会が分裂しかねません。この牧師の冷たく厳し過ぎると思えるこのご指導は、まさに未熟な信徒を成熟に向かわせ、後任者との信頼関係構築へ導く愛に満ちたご指導ではないでしょうか?
人につく未熟さがもたらすもの一つは、不一致や分裂ですが、それは横の交わりの断絶と言えるでしょう。それに対して、人につく未熟さがもたらす断絶がもう一つあるのですが、それは、いわば、横の断絶ではなく、縦の断絶です。教会内の交わりの断絶ではなく、世代間の断絶です。言い換えますなら、それは、信仰継承の破たんです。
人につく未熟なクリスチャンは、言わば牧師のファンです。その牧師が転任しようが、引退しようが、天に召されようが、その牧師のファンのままです。その結果、後任者の牧師と信頼関係を築いて共に教会を建て上げていく歩みをすることがありません。
そうなると教会は、人気歌手のファンクラブと同じ状態に陥ります。例えば、戦後第一世代は歌謡曲が好きで美空ひばりさんや坂本九さんのファンです。第二世代はニューミュージックブームの中で育ち、ユーミンやサザンオールスターズのファンです。そして、第三世代はアイドルユニット全盛期ですから、AKBや嵐などのファンです。
どんなに美空ひばりさんや坂本九さんの歌を聞かされても、下の世代は、リスペクトはできても、ファンにはなれません。ですから、美空ひばりファンクラブと坂本九ファンクラブは、次世代を獲得することなく高齢化するしかありません。
同じように、○○牧師ファンクラブは継承できません。信仰は継承できても、ファン心理は継承できません。ですから、牧師のファンクラブとなった教会は、牧師のファンである年齢層がそのまま年老いていき、少子高齢化の一途を辿ります。
お互い、子どもを甘く見てはなりません。子どもたちは大人が思っているより、賢明です。分別がついてくれば、親や教会の先輩たちが神様につながっているか?牧師のファンなのか?くらいは、子どもだって見抜きます。
ファン心理は世代を超えることはできませんが、歌を愛し、自分の育った時代の流行の音楽に熱中することは、世代を超えていきます。成熟したクリスチャンが、人でなく、神様に結び付き、神様を愛し、成長する姿は、子どもたちへの何よりの証しとなってゆきます。人ではなく、神様につながり歩む親と先輩の成熟は、次世代への信仰継承の大きな力と言えるでしょう。
パウロは、コリント教会を叱責しました。「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。 」
「牧師招聘と教会の成熟度」、その二つ目は、「未熟さが教会にもたらすのは何か?」ということです。人につく未熟さが教会にもたらすのは、ずばり、「分断」です。それは、不一致、分裂と言う横の交わりの分断であり、また、信仰継承の破たんという縦の分断、世代間の分断でもあります。
私たち一人一人の成熟度が、教会全体と次世代の救いと成長に大きな影響を与えることをこの朝、覚えたいと願います。そして、牧師招聘というこの機会を、自らの成熟度を御言葉の前に問い、成熟へと向かう時としてゆきましょう。
~本論C~
最後に短く三つ目です。「牧師招聘と教会の成熟度」、その三つ目は、「成熟に向かうためにすべきこと」です。「成熟に向かうためにすべきこと」です。パウロはこの箇所で、ただ、未熟さを叱責するだけでなく、成熟した考え方を示しています。そのことは8節と9節に記されています。8節と9節をお読みします。
「植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」
ここに記されていることを一言で表現するなら、聖書的教職者観、信徒観の確立です。分かりやすく言えば、「牧師とは何か?信徒とは何か?」についての考え方の訂正です。牧師と信徒、それぞれについての間違った考え方をしているなら、それを認めて改めようということです。
まずは、教職者、牧師についてです。8節は「植える者と水を注ぐ者は、一つで、それぞれの働きをする」と言います。また、9節によれば、牧師などの教職者は、「神の協力者」として位置づけられています。ですから、神の協力者たちはそれぞれの働きをするのですが、全体としては一つなのです。このところで、パウロは、コリント教会の開拓者と後継者を一つだと教えています。
そこで、皆さんにお尋ねします。皆さんは、これまで集ったことのある教会の歴代の牧師を、それぞれ一人ずつとして考えてきたでしょうか?それとも、一つの協力の働きとして受け止めてこられたでしょうか?もし、パウロが教えているのと違っていたら、今日、この時、考え方を改めて成熟に向かいましょう。
このことは陸上競技にたとえることができるでしょう。牧師交代をしてきた教会においては、牧師の働きは、それぞれが、100メートル走る個人競技をしてきたのではなく、各自が100メートルを走るリレー競技をしてきたのです。
2016年のことです。リオ・デジャネイロで開催されたオリンピックでは、日本のリレーチームが銀メダルを獲得し、大きな喜びを日本中にもたらしました。4人のタイムを足したら、メダルは難しいとは明らかでした。だからこそ、失敗のリスクは高いけれど、タイムが短くなるバトンパスにチャンジし、成功したのです。
植える者と水を注ぐものは一つです。それぞれの牧師は自分のレースを走りますが、歴代牧師はリレー競技をしてきたのです。ですから、良心的な牧師は、スムースなバトンパスを願って、様々な努力や配慮します。だとしたら、信徒の側も、リレー競技のバトンパスとして、牧師招聘を受け止めて、自らの成長に機会とされてはどうかと思うのです。
聖書的教職者観の次は、信徒観です。パウロは、9節で「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」と教職者と信徒を位置付けます。信徒は、農業にたとえるなら、畑であり、作物を育てるのは神様で教職者は協力者です。建築たとえるなら、信徒は建物で、建てるのは神様で教職者はその協力者です。畑も建物も成長していくイメージでのたとえです。さて、皆さんはご自分を、神の畑、神の建物とお考えでしょうか?
残念なことに、昨今は、あたかも自らを消費者として位置付けているようなクリスチャンをしばしば見かけます。教会は、献金や奉仕などの代償に対して、慰めや励まし、希望や安心などを与えてくれる精神的サービス産業で、牧師はその経営者、信徒は牧師や教会を顧客度満足度で評価して取捨選択する、とりわけ都市部では、そうした傾向が強いように感じています。しかし、それは聖書が示す神様の御心とは正反対です。
実は、今回、奉仕に際して、どんなメッセージがよいでしょうかと問い合わせをしたところ、参考にと、リーダーの皆さんがJECAに送った祈祷課題をお知らせくださいました。その二つ目は、「牧師招聘の道のりが備えられますように」です。
そして、次の祈祷課題に感動しました。続く三つ目は、「弟子訓練の必要を覚えます。その環境が整えられますように。」です。牧師招聘と弟子訓練をセットとされていること、これは、牧師招聘を願う教会として模範的な姿勢と言えるでしょう。
リーダーの皆さんが、教会員一人一人を神の畑、神の建物のように考え、牧師招聘に向けて、祈り待ち望むだけでなく、成長していこう、完成へ向かっていこうとしていること。その姿勢を、神様はきっとご覧になり、牧師招聘へ向けて、既に働いておられることでしょう。
聖書は言います。「植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」
「牧師招聘と教会の成熟度」、その三つ目は、「成熟に向かうためにすべきこと」です。「牧師とは何か?信徒とは何か?」について、もし、神様の御心と異なっているなら、牧師招聘を機に、聖書的な牧師館、信徒観へとシフトして、成熟に向かいたいと願います。
~結論~
この朝は、「牧師招聘と教会の成熟」と題しまして、三つのポイントで、牧師招聘に際して問われる教会の成熟について、第一コリント3章前半の御言葉をお取次ぎしました。人につくことが未熟さの現われであること、その未熟さは教会の不一致と信仰継承の分断をもたらすこと、その克服のために聖書的な教職者観・信徒観を持つべきことを共に見てきました。
この礼拝の中、2000年前のコリント教会の牧師交代と自らを重ね合わたいと願います。コリント教会は、私たちの反面教師であると同時に、私たちが陥りかねない過ちを示しています。この朝の神様からの語り掛けに、それぞれの立場で応答し、牧師招聘を祈り願いつつ、成熟に向かってゆきましょう。


2023-07-16メッセージの案内 – 松本豊かな命キリスト教会回覧 への返信 コメントをキャンセル